月は物体ではなくて穴の向こうの光、という妄想

北海道に住んでいたことがある。空気が澄んでいてきれいだったからか、夜空の星が美しく見えた。

今住んでいる場所に引っ越すことが決まったときは、向こうに行ったらもう美しい夜空は期待できないな、と決めつけていた。

ところが、実際にここに引っ越してくると、職場の大学が都心からは少し離れていて周りが住宅街というものあるのかもしれないが、意外なほど星空がきれいなことに驚いたのだった。

このあいだも、仕事が終わって研究室から出ると、夜空にきれいな満月があるのが見えた。厳密には満月ではなかったのかもしれないが、とにかく丸い月だった。クレーターによる薄いグレーの模様もわりとくっきりと見えて、ほれぼれとするほど見事だった。

大学から駅までは15分ほど歩かねばならない。しばらくは南から北に向かって歩くので月は視界から外れるのだが、駅の近くに来ると道が東の方向へ曲がるので、再び正面にその鮮やかな月が見えるのだった。

灰色は素敵な色だけれど、灰色は灰色のような色にまぎれている。

その丸い光を眺めながら歩いていたら、今日もまた奇妙な想像をしてしまった。

どういう想像かというと、あの金色に光っている丸いものは、実は大きな球形の岩ではない、というものだ。本当は空全体が金色の光に満ちているはずなのだが、今はその空の全体が真っ黒の幕で覆われていて「夜」ということになっているだけである。ただその幕に一箇所だけ、小さい完璧な円形の穴があいていて、そこからこの巨大な黒い幕の向こう側の世界の明かりが見えているのだ、というものである。

しばらく前に、いったんこのような想像でもって月を眺めてみたら、なんとなく面白いということに気付いて、それ以降も丸い月を見たときに、「あれは実は物体ではなくて丸い穴なのであり、穴から向こう側にある光が見えているだけなんだ」というつもりで眺める癖がついてしまったのである。

北海道にいたときは、こんな想像は思い浮かばなかった。初めてこのような想像をするようになったのは、今の場所に引っ越して来てからなので、40歳を過ぎてからのことである。

そんな歳になってどうしてそんなふうに月を眺めるようになったのかは、わからない。自分でも、子供じみているという気はする。だが、もうずいぶん長いこと、私にとって月は球形の岩石ではなく、そもそも「月」など存在せず、多くの人が「月」と呼んでいるものは空一面を覆っている幕の向こう側の光なのだ、と思い込むふりをしながら眺めるようになっているのである。

私はいわゆる天の邪鬼なので、みんながAだと言っているものに対してはBだと言いたくなる。みんながFはつまらないというと、私は意地でもFの面白さを見つけたくなる。みんなが直線Jと直線Kは平行だと言っていると、私はJとKは遠くで交わっているのではないか、と言いたくなる。あえて逆を考えたがるひねくれ者なのだ。

肉眼で見えるあの月というのは、物体であるとわかりきっている。だからこそ、あえて、実はまわりの黒い夜空の方が物体であり、あの光っているものは実はモノではなくむしろモノの欠如、つまり「穴」であり、私たちはその穴から向こう側の光を見ているのだ、ということだったら面白いな、などと考えているのである。

つり革の持ち手はなぜまん丸なのだろう、という疑問が思い浮かんだくらい静かな夜。

この想像世界においては、その黒い幕というのはけっして悪の象徴などではない。その幕があるおかげで、向こう側の強烈な一面の金色の光のまぶしさから守られているのかもしれない。

とても小さな円形の穴から光が漏れてくるだけなので、黒い幕の向こう側の世界に何があるのかは見えないままである。ただ、光にあふれた世界だということだけはわかる……。

月のクレーターによる模様は、日本ではウサギが餅つきをしている様子だとされている。だが、子供のころに本で、月の表面の模様の解釈は国によってさまざまで、フランスでは何々、イタリアでは何々、スペインでは何々、とそれぞれ全然違う模様の解釈や物語がある、というのを読んだことがあった。

具体的にどの国で月の模様は何だとされているのかは忘れてしまったが、どこかの国では男女の顔、また別のどこかの国ではカニの姿だとされている、という説明がなされていたことはぼんやりと覚えている。

人間がその表面に足跡をつけた後でも、なお月というのは不思議なものである。文学でも、美術でも、あるいは音楽のタイトルでも、月に関するものがある。日本人の名字でも、月がついた名前をときおり見かける。そういえば、私の名前にもいちおう月の字が含まれている。

神話や、宗教文化でも、月にさまざまな意味が与えられていることが珍しくない。だが、すでに今から2500年くらいまえのギリシアの自然哲学者たちは、月の軌道とか月の大きさというものについて考え、計算したりしていた。

きっとギリシアの庶民のなかには、いや、それ以外の国の人たちの中にも、私の妄想と同じように、月というのは実は物体ではなく丸い穴であって、そこから向こう側の世界の光が見えているだけなんだ、というふうにイメージしてそれを眺めていた人も、何人かはいたのではないかと思う。

私が思いついたくらいなのだから、すでに昔から、けっこう多くの人が同じようなことを考えているはずである。

(終)

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