最近は罪悪感なくテレビを眺めている

昨日も今日も、自宅で原稿を書いて過ごした。

今日は一気に4500字くらい書けたが、それは昨日、資料の本をじっくり時間をかけて読むことができたからである。

ただ昨日の昼間読んでいた本は非常に抽象的な議論のもので、ちょっと頭がつかれた。そこで昨夜は夕食後、1時間もぼんやりとテレビを見て過ごしたのだった。

ぼんやりとテレビを見ることに、かつては罪悪感があったけれど、いまではそうでもない。そういう時間も、頭を休めたり、ちょっとしたひらめきを得るのに効果がないわけではないとわかってきたからだ。

最近の若い人たちは、もうあまりテレビを見なくなっているという。新聞をとらなくなったというのはわかるが、テレビも見なくなった、というのは、私には少し意外に感じる。

私は、子供の頃は、親からテレビの見過ぎを注意されることはほとんどなかった。テレビよりも、虫を捕まえたり、工作をしている方が楽しかったからである。

バニラ風味のコーヒーをよく飲んでいた時期があった。

ところが、大学生になって一人暮らしを始めて、やがて大学院に進んだ時期、すなわち20代の頃は、よくテレビを見るようになったのである。

それは、決してテレビが面白くてしょうがなかったというわけではない。どちらかというと、特に見たいわけではなかった。だが、おそらく精神的に不安定だったので、テレビを見ることでもって気をそらさずにはいられなかったのだと思う。

私にとって、20代は学問の面白さに気付いて、よく勉強をしていた時期である。だから、それなりに毎日は充実していた。

しかし、その一方で、大学院に進んで学問の世界で生きていこうとすることには強い不安があった。純粋に学問を楽しんでいただけではなくて、日本中の同年代の院生がライバルになっていることに、ものすごくプレッシャーを感じていたのである。

そんな時期においては、図書館や自宅で一人で本とノートを開いて黙々と研究を進めるという能動的な作業をするのが難しい日もよくあった。かといって、何もしないでいると、ただひたすら鬱屈した気分になってしまう。

そこで、自宅にいるときはとりあえずテレビをつければ、目と耳に何かしら強制的に情報が入ってくるので、不安なことを考えないでいられるようになる。つまり、悩まなくて済むようになる。

たぶん、こうしたわけで、20代の私はよくテレビをよく見ていたのだと思う。

だが、当時もすでにテレビというのは子供か老人向けのコンテンツばかりで、はっきりいって低レベルな内容だった。だから長時間それを眺めているのはなんだかバカみたいだということは自覚していた。

テレビを見ていると、精神的には楽なのだけれども、明らかに時間を無駄にしている、という罪悪感があったのだ。

やがて、運よく就職ができ、精神的にも少し余裕ができるようになった。すると、過度な不安やプレッシャーからも解放されて、テレビを見なくても大丈夫なようになった。

しかし、それからさらにしばらくすると、私は別の理由からまたテレビを見るようになった。というのは、テレビは、CMも含めて、自分で選んだわけではない情報がランダムに目と耳に飛び込んでくるからである。

本やインターネットで集める情報は、自分で探しに行って、自ら意図して手に入れたものである。研究においては、そうして得た情報を精査し吟味する作業が最も重要であることは言うまでもない。

だが、ぼんやりとテレビを眺めていると、自分が普段まったく興味をもっていなかった分野の情報や知識が、強制的に目や耳に入ってくる。自分からは取りに行かない事柄がランダムに目の前に示されるので、それが、何かを考えたり執筆中の原稿を書き進めようとする上で、ヒントになる場合がある、と気付いたのだ。

イエスは顔を見てみたいが、ブッダは声を聞いてみたい。

確かにテレビには、幼稚な空騒ぎや、子供じみたドラマ、誤解だらけの教養番組が多い。だが、それらの内容を真面目に受容するのではなく、文脈は無視して、画面に映るわずかな瞬間の人やモノや台詞や情景それ自体を、単語的なレベルだけで眺め、聴くのである。

たとえば、本屋に行って、いろいろな分野の本棚の間を歩きながら、ひたすらその背表紙だけを眺める感じとも似ているかもしれない。

番組それ自体の情報の正確さや公平さには、そもそも期待していない。ただ、瞬間瞬間で見えたり聞こえたりする単語や短いセンテンスは、何かしらちょっとした「ひらめき」のきっかけになることがある。

そう気付いたら、20代の頃はテレビを見ることに罪悪感のようなものさえ覚えていたのだが、今はそんなこともなく、堂々と落ち着いた気分で、ぼうっとテレビを眺められるようになったのである。

そういえば、星新一のエッセイにテレビに関するものがあった。

彼によれば、テレビの出現によって、家庭から、いわゆる一家団欒という現象が大幅に失われたという。ただし、全家庭がそうなってしまったのではなくて、ちゃんと例外も残っているという。それはすなわち、テレビのなかのホームドラマにおける家庭だというのだ。

星によれば、テレビドラマの中の家庭のシーンには、みんながぼんやりとテレビを眺めているという「みにくい」情景は描かれていないという。なんだか彼らしい、ユーモアと皮肉のある指摘だと思った。

(終)

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