別に「楽しい」でなくてもいいのでは

先日、同僚たちと雑談をした。こんな本を読んだとか、誰々先生の研究が面白いとか、そんな話だ。

そのときに、仕事や遊びなど、さまざまな営みの「楽しさ」というのが話題になった。私は彼らと別れてからも、そもそも「楽しさ」とは何か、「楽しむ」あるいは「楽しい」とはどういう状態を指しているのだろうか、とぼんやり考えた。

しばしば、スポーツ選手が試合の前のインタビューで「楽しんでプレーしたいです」などと言うことがある。大学教員も、入学式などで、新入生に対して「楽しんで勉強をしていただきたい」などと言ったりする。

だが、そうしたところでいう「楽しい」という言葉が何を指しているのか、よく考えると、あまり明瞭ではない。一般に「楽しむ」とか「楽しい」というと、すなわち「笑顔でいること」をイメージするが、それがしっくりこない場面もありうるのではないだろうか。

例えば、映画を観るという行為は、広い意味では「娯楽」である。娯楽という言葉にすでに「楽」という漢字が含まれているように、それは基本的には「楽しさ」を求めてなされると言ってもいいかもしれない。

しかし、映画を観て大きな満足を得たとき、それは必ずしも「笑顔になった」とか「腹を抱えて笑った」ということではない。

戦闘機はツヤ消し塗装が基本だけれど、新幹線の塗装にはツヤがある。

その映画はとても悲しいストーリーの作品だということを知りつつ鑑賞して「泣いた」とか、ホラー映画だったと知りつつ鑑賞して「怖かった」というのも、映画を観ることによって得られる満足の一つだ。

だが、悲しい映画を観て、涙を流して感動しながら、「この映画、すごく楽しかったよ」と口にしたりすると、ちょっとサイコパスっぽい。そうした場合は「とてもいい作品だった」という表現をするものであり、「楽しい」という言葉は使わない。

ジェットコースターなども同様で、乗り終わった後は「楽しかった」と振り返るが、乗っている最中の心拍数は明らかに不健康な状態であり、表情も歪んでおり、つまりある種の苦痛を受けていたと言っていいだろう。

学生に対して「楽しんで勉強をしてください」と言ってしまうのは、建前としてはよくわかる。励ましの言葉として、好意からそう言っている、というのもわかる。だが、正直に私自身の実感というか、自分の経験に照らしていうならば、「別に楽しくなくてもいい」と思ってしまうのである。

というのも、例えば本や論文の原稿を書いていて、その作業に「夢中になる」ことはある。だが、それは「笑顔になる」とか「楽しいと感じる」というのとは、ずいぶん違うことだからだ。

私が夢中で調べ物をしたり、文章を書いたりしているとき、きっと傍目には、私は顔をしかめて不機嫌そうに作業をしているように見えるのではないかと思う。

ちょっと大げさかもしれないけれど、人文系の学問だったら、涙をこらえながら論文や本を書く、という場合も決してないわけではない。

夢中になって何かを調べたり、計算したり、解読したり、分析したり、執筆したりしているときは、ただひたすら「この点はどうなっているんだろう」「あれはいったい何だろう」「どう計算すればいいのだろう」「この表現で伝わるだろうか」「この書き方で正しいだろうか」と、ひたすら「悩んでいる」のだ。

人は、本当に何かに「夢中」になっているときは、笑顔になんかならない。

夢中になっているときは、むしろ、眉間にシワを寄せて、楽しくなさそうな表情にさえなっているものだ。だけれども、そういう時こそ、本人としては幸せなのである。

絵画や彫刻に取り組んでいる芸術家も、納得のいく音楽を作ろうとしている作曲家も、同じようなものではないだろうか。創造的な作業をしているときは、「楽しそうな顔」ではなく、むしろ「つらそうな顔」「不機嫌そうな顔」をしているものだと思う。

哲学者や作家もそうだ。彼らは「楽しいこと」よりも、むしろ「悩むこと」を求めているのかもしれない。悩むことにも夢中になりうるところに、人間の人間らしさがある。

もし「いつも同じ色のシャツを着ていますね」と言われたら「君もだね」と言い返すつもり。

ところで、人は、何か新たな知見を得られたり、自分の成長を実感できたりしたときには、大きな満足や喜びを覚える。

本当に大切なことや、人生における貴重な気付きといったものは、「楽しいこと」よりも、むしろ不快な出来事や、苦難や苦痛を通して得られることの方が多い。

「楽しかった」という感想が出てくるような出来事や経験は、その瞬間には確かに喜びがあり、それ自体を否定する必要は全くない。しかし、そこから長期的・普遍的な収穫を得られることは少ない気がする。

以前、機甲科(戦車に乗る職種)にいた自衛官たちから訓練の話を聞いていた際に、そのうちの一人が「つらくて大変だった時のことが、一番いい思い出になっている」という主旨のことを言っていた。私も、中学や高校時代のときの「いい思い出」は、「楽しかった時」よりも、むしろ「つらかった時」のことなので、彼らの言いたいことはわかる気がした。

決して、つらくないと仕事じゃないとか、楽しんで仕事をするなんてけしからん、というような、昭和的な価値観を主張したいわけではない。

たが、私は大学時代や大学院時代を振り返ってみると、確かに楽しかったことは貴重だし感謝しているけれども、苦痛だったことや、さまざまな葛藤、悩み、あるいは後悔しているようなことこそ、貴重だったとも思うのである。それが実感としてあるから、学生たちに「楽しい学生生活を送ること」をすすめる気にはどうもなれないのだ。

「楽しさ」を志向させるというのは、なんだか、他者から何か心地よいものを与えてもらうことを期待するだけのような、受身の姿勢をうながしているような気もしてしまうのである。

重要なのは、「楽しさ」があるかどうかよりも、周囲から顰蹙をかってでも夢中になれるものを見いだせるかどうかではないかと思う。

「楽しさ」の弱点は、それを享受しているか否かが他者からもわかってしまう点だ。だから、しばしば人は、「楽しんでいる自分」をアピールすることでもって、他者に自分の優位性を誇示しようとしたり、あるいは家族など周囲の人々を安心させようとしたりもしてしまう。

そこでは、自分が本当に楽しいかどうかではなく、楽しそうにしていると思ってもらえるかどうかが、問題になってしまうのだ。

それに対して、「夢中になる」という状況においては、他者からどう思われるかなどは気にならないのみならず、自分がどう感じているかを自分自身で意識したり振り返ったりもしない。傍目からは、つまらなそうだったり、あるいはつらそうに見えたりしても、でも、本人としてはとても幸せなのだ。

細かい点についてはまだ考え中だけれども、とりあえず、別に「楽しい」にこだわらなくてもいいのではないか、と思う。

傍目からは楽しそうではなくても「幸せ」だという人は意外と多いと思うし、楽しそうであっても実はさほど「幸せ」ではないという人も、意外と多いのではなかろうか。

そう、これは結局、「幸せとは何か」という問いだったのかもしれない。

(終)

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