知らない人の人生を、知り得ないまま死ぬ

今日はいつもより早くうちを出て大学に向かったので、駅には多くの人がいた。

普段は自宅で軽く一仕事をして、通勤ラッシュを避けた時間に電車に乗るようにしている。だが今日はなるべく早く大学で片付けてしまいたい仕事があったので、久々に通勤客で一番混んでいる時間に駅に着くことになったのである。

改札を通り、ホームへ上がるエスカレータに乗った。そのエスカレータで私の前に立っていたのは、60歳くらいの男性だった。禿げかかった白髪頭の人である。

そんな彼が背負っていたリュックには、「no cat, no life」というロゴが入っていた。「猫なくして人生なし」「猫のいない生活なんてありえない」という意味である。

上りエスカレータだったので、そう書かれたリュックが20秒くらいずっと私の目の前にあった。だから、私はつい、このおじさんはどういう経緯でこのリュックを持つにいたったのだろうか、などと考えた。というのも、そのリュックは少々若い女性向きのデザインであるように感じられたからである。

ひょっとしたら、確かに彼は猫が大好きで、猫が大好きなあまり、お店でそのロゴの入ったリュックを選んで買ったのかもしれない。

あるいは、彼にとってバッグのデザインなんてすごくどうでもよくて、そのリュックは自分の娘が幼い頃に使っていたもので、もう使わなくなってしまったのだが、捨てるのももったいないから今は自分が使っているという次第なのかもしれない。そんなふうにも想像した。

このネコの一人称は、「私」か「ぼく」か「吾輩」か「オレ」か。

そして、もしそうだとしたら、その娘さんは今何をしているのだろうか。もう大学生になっているのかもしれない、あるいはネイルアーティストになっているのかもしれない、などとさらなる勝手な想像をしていたら、エスカレータは上に到着して、そのリュックを背負った男性は人混みの中に消えていった。

私は、一人で外を歩いているときなど、すごくどうでもいいことをあれこれ考えてしまう癖がある。

暇なときにも、なるべく仕事に関係することや、何かしら有意義なことを考えたい、とは思う。だが、通勤時にエスカレータで目の前の初老の男性が「no cat, no life」と書かれたリュックを背負っており、それを数十秒間眺めることになったような場合は、そのリュックを糸口にしてあれこれ勝手な想像をするくらいしか頭の使いようがない。少なくとも、今朝はそうだった。

人は誰も、他人には想像できない人生を送っている。

ひょっとしたら今朝のその男性は、一般には名前が知られていないけれども国内で8割くらいのシェアを占めている機械部品を作るメーカーの社長なのかもしれない。あるいは、定年を2年後にひかえた新聞記者かもしれないし、寿司職人かもしれない。

あるいは、刀鍛冶かもしれないし、中学校の数学の教師かもしれない。テレビ局で働くカメラマンかもしれないし、意外と浄土真宗の僧侶かもしれない。

娘とはすごく仲が良いのかもしれないし、あるいは離婚した妻とともに娘とはもう20年も会っていないのかもしれない。あるいは娘なんていなくて、そのかわりに髭をはやした一人息子がいて彼は埼玉県の春日部あたりで働いているのかもしれないし、あるいは、そもそも結婚をしていないのかもしれない。

仕事は順調で、今週末には友達と釣りに行く約束をしているのかもしれないし、あるいは今は日本に一時的に来ているだけで実はタイのバンコックに家族を待たせているのかもしれない。

きっと全部外れているだろう。

ひょっとしたら私自身も、エスカレータで私の後ろにいる人から「この人は何をやっている人だろう」とあれこれ想像されて、「このおっさんは古着屋の店員なのではないか、あるいは眼鏡屋の店員なのかな、いや仮想通貨で一儲けして悠々自適なのかな」とか「独身で不規則な生活をしていて、昨日も遅くまで一人でぼんやりゲームでもしていたのではないか」などと勝手に想像されていたかもしれない。

私は他人を知り得ないし、他人も私を知り得ない。知り得ない間柄のことを他人と言うので、こうした言い方はトートロジックだろうか。

「他人」というと何となく冷たい響きがあるが、あらゆる人にとって世界は他人から成っているといっても過言でないことは端的に事実である。

学生時代、友人とトルコに旅行をしたことがあった。トルコ内を長距離バスであちこちをまわったのだが、首都アンカラで、夕方ものすごく綺麗な景色を見たことを今でもよく覚えている。

丘というには高すぎるが、山というのは低すぎるかな、というくらいのところへのぼり、そこから街を見下ろした。すると、一面にひろがる家々の赤茶色の屋根が夕日に照らされ、ものすごく壮大な景観だったのである。

お腹がすいたけれど、もう少し先まで歩こう、と思ってここを歩いたのは2ヶ月前。

この数え切れないほど多くの赤茶色の屋根の下一つひとつに、それぞれの家族が住んでいる。その家族一人ひとりに、それぞれの誕生日があり、親がいて、日々の食事があり、遊びや楽しみがあり、悩みや苦労もあり、将来への希望や期待もあり、これまでの思い出があり、今現在も何か手を動かしたり、何かを考えたりしている。

そして、もれなく皆が死んでいく。

その夕日に当たっている屋根を見ていたら、この世に同じ人間は一人もいなくて、誰もが唯一の存在として存在し、唯一の存在として消えていく、ということが圧倒的な現実として目に入ってしまったという気がして、猛烈に驚嘆したのであった。19歳か20歳の頃のことだった。

すでにわかりきっている事実なのに、それをあらためて認識して、驚嘆した。なぜ「驚き」を覚えたのかは自分でもわからない。でも、それは明らかに「驚き」なのであった。今思うと、宗教的と言ってもいい感覚だったような気もする。

世の中にいるのは、すべて自分以外の人間である。誰にとっても、世の中はそのようなものなのだ。そしてその「自分以外の人間」のほとんどを、私たちは知らないし、今後も知ることができない。私たちにとって、世の中は、その人については何もしらない、という無数の人々によって構成されている。

だがその人たちも間違いなく、ある日、ある時間に生まれ、学校に通ったり、笑ったり泣いたり、何かを面白いと感じて夢中になったり、誰かに傷つけられたり、あるいは誰かを傷つけてしまったり、愛したり愛されたりして、死んでいき、そして忘れ去られていく。

今朝「no cat, no life」というロゴの入ったリュックを背負っていた60歳くらいのその男性とは、もう死ぬまで二度と会わないかもしれない。だが、彼にも私には想像しきれないさまざまなライフヒストリーがあったし、それはまだしばらく続くのだろう。

知らない人を目にする、ということは、自分には知りえない人生もとにかく「ある」ということを突きつけられることに他ならない。

(終)

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