知っている人が亡くなって死について考える

最近、知っている人が、幾人もたてつづけに亡くなった。

そのうちの一人は、私よりもずっと若い人だったので、訃報を聞いたときは信じられなかった。

信じられなかった、と言っても、もちろん人間はいつか必ず死ぬのであって、その人が永遠に生きると思い込んでいたわけではない。よく知っている人が亡くなったときの「ショック」というのは、死そのものよりも、死のタイミングや状況に関する強烈な違和感のことであろう。

地球上では、常にあちらこちらで、深刻な時間が流れている。

私がぼんやりテレビを眺めていたり、パソコンで動画を観てのんきに笑ったりしているときに、別の誰かは人生の最期の時を迎え、静かに何かを考えている。また別の誰かは、大切な人に別れを告げたりしている。

それはわかっているけれども、そういう様子を毎日毎時、細かく想像していたらその緊張感に心が持たない。だから、私たちは、自分の想像力を適当なところでオフにして、毎日を過ごしているに過ぎない。

私は若い頃、エゴン・シーレという画家の絵が好きだったが、確か彼は28歳で亡くなっている。尾崎豊は26歳、太宰治は38歳、芥川龍之介は35歳。みんな結構若かった。

フランシスコ・ザビエルが日本に来たのは43歳のときで、彼は46歳で亡くなっている。私はすでに、ザビエルよりも長く生きている。

いつもここでタバコを吸っている人が、今日はいない。

21世紀の日本では、もし50歳前後で死んだら「早死」と言われるだろう。

私は生育環境には恵まれたし、好きな勉強もできたし、海外もいろいろ行かせてもらった。本もたくさん出版させてもらった。これまで、ずいぶん好き勝手にやってきて、社会人としての自分の能力の限界もわかってきたので、死ぬのが少し早くても、それ自体に悔いはない。

むしろ、昔あの人にあんなことを言ってしまったとか、傷つけてしまったとか、そういう後悔というか、「ごめんなさい」と言いたい人たちの顔が頭をよぎる。

今もし私が、病気か何かで意外と早く死ぬだろうと告知されたら、どうするだろうか。

まずは、大学の研究室の整理や片付けを始めないといけない。あと、原稿依頼を受けた出版社にも連絡して、原稿は書けないかもしれないと伝えておかねばならない。あと、お金のことなど、さまざまな手続きについても、必要なメモを残しておかねばならない。

会うべき人にも会っておこう、とも考えるかもしれない。だが、私はその人に会いたくても、その人は特に私には会いたくないかもしれない。いっそ会わずに死んでしまった方が、後で私の死を知ったその人は肯定的な気持ちで私のことを思い出せるかもしれない、などと余計なことまであれこれ考えてしまう。

古代ギリシアの哲学者エピクロスは、「死」というものについては恐れる必要などまったくない、と言ったとされている。というのも、彼によれば、私たちは生きている限り「死」は経験できず、いざ「死」がやって来たときにはもう自分は存在しないからである。

ソクラテスも「死」を恐れることはなかった。なぜかというと、「死」は人間が知り得ないものだからである。もし「死」を怖がるとしたら、それは、知らないはずの「死」について何かを知っていると思いこんでいるからに他ならない。つまりこれは、有名な「無知の知」の論理を「死」に応用したもので、死が何かわからない以上はそれを恐れないのが「知」的な態度だというわけである。

私が今回訃報を聞いて驚いたその人は、非常に有能で、人柄もよく、朗らかな性格だったので、知らせを聞いた誰もが驚いているだろうと思う。

時計の数字は緑色で、ベンチも緑色だった。

若い人の死に驚いていると、私のようにいまだに生きている凡人は、つい反射的に「では自分はなぜ生きることができているのか」などと考えてしまう。もちろん答えは出ないけれども、とにかく残りの人生を「意味」のあるものにしよう、などと自分に言い聞かせたりもする。

だが、そうした考えの前提には、「生」にこそ意味があって、「死」とは生という「意味」を断ち切るものに他ならない、という認識がある。「生」を大切にすることはもちろん正しいであろうが、かといって「死」をネガティブにのみ捉えるだけでいいのだろうか、とも思ったりした。

「死」について考えるのが難しいのは、自分の死を考えるのと、家族の死を考えるのと、「死」一般について考えるのとでは、それぞれまったく違うからであろう。

もし私が今、何か病気になって、余命はわずかだと医者から言われたとしよう。その時は、もちろんかなり驚くとは思う。けれども、よく考えると、そうした運命を不満に思うのはおかしなことなのかもしれない。

なぜならば、私のこの身体や命は、自分の力で獲得したわけではなく、与えられたものに過ぎないからである。

私はこの身体を、「ただ」でいただいて、生きている。「ただ」でいただいた命について、その短さに不満をいうとするならば、それは、誰かから食事をごちそうになっておきながらその量が少ないと文句を言うようなものではないだろうか。

昨夜は、ベッドに横になって天井を眺めながら、そんな理屈をぼんやりと考えていた次第である。

(終)

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