自分は立食パーティが苦手だったと思い出す

昨日、珍しく同僚と4人で昼食を食べた。私は毎日、昼食は一人で研究室で食べるので、同僚と一緒の昼食はなんだかとても新鮮だった。

集まったメンバーは皆、穏やかな人柄でありながら話題が豊富な人たちだったので、とても楽しい時間だった。

私はこの年になってもなお、誰かとおしゃべりをしながら食事をするというのは、基本的には苦手である。一人で考え事をしながら黙々と食べる方が、楽なのだ。だが、昨日はメンバーがよかったし、場所が静かな飲食店だったので、落ち着いておしゃべりをすることができた。

だが、それでもやはり、「立食パーティ」というものだけは苦手である。少人数の会食はよくても、立食パーティだけは慣れる見込みがなく、今後も避け続けたいところである。

立食パーティというものを多く経験するようになったのは、大学院で修士論文を書き終わり、「学会」というものに入ってからだったかな、と思う。学会の後には「懇親会」という名の立食パーティが設定されることが多く、それが研究の話をしたり人脈を広げたりするための場になっている。

院生のころは、まだそうした立食パーティが珍しかったし、また何よりも研究者としてサバイバルしていくために、参加しないわけにはいかなかった。

当時の私は、他大学の院生に話しかけたり、発表の際に質問をしてくださった他大学の教授などに御礼を言ったり、という風に、それなりにたくましく振る舞うことができていたと思う。

今日は、道路工事をしていたすぐ脇の横断歩道を渡った記念日。

しかし、40歳にもなり准教授になった頃、落ち着いてふと我に返ると、自分は実は立食パーティとやらがものすごく苦手だったということを、生まれて初めて「思い出した」という気になった次第である。

年を重ねると、あちこちで講演などに呼ばれるようになる。研究者の集まりもあれば、そうではない全くの異業種の人たちが集まる場所に呼ばれたりすることもあるのだが、やはりその後には立食パーティが催されることが多い。

だが私は、呼んでくださった方には申し訳ないのだけれど、やはり正直なところそのようなものはちょっと苦手で、できれば参加したくないというのが本音なのである。

いったいなぜ立食パーティが苦手なのか。その理由は、そうした場ではただ飲み食いするだけでなく、いろいろな人と上手におしゃべりをしないといけないからだ。

そのような場において、私は人との会話の距離感がつかめないというか、会話のリズムに乗れないというか、なんとも気疲れしてしまうのである。

もう少し具体的にいうと、グラスや皿を手にしたまま誰かの近くに行って話をするのは、まあどうにかできる。だが、問題なのは「別れるタイミング」で、それまで話をしていた相手から離れて別の人のところへ移動する頃合いというのが、どうもよくわからないのである。

「こんにちは」とか「先ほどのお話は面白かったです」とか、こちらから話しかけること自体はさほど難しくはない。誰かから話しかけられて、その対応をするという形で会話を始めるのも、大丈夫である。

だが、問題は、その人との会話が終わったとき、あるいは終わりそうなときである。どのようにその人から離れて体を別の方向に向ければいいものか、そのタイミングが私にはなかなかわからないのだ。

「じゃあね」という感じでさっさとその場から離れていいものなのだろうか。仮に「それではまた」と言って軽く頭を下げてその人のところから離れたとして、ではどこへ移動すればいいのだろうか。それが気になって、会話や食事を楽しむどころではなくなってしまうのである。

別の場所に話をしなければいけない人がいれば、「あそこにいる誰々さんに話があるので失礼します」と言って移動できそうだ。だが、そうした相手が誰もいなかったら、どのように話を切り上げて、どこに向かってスタスタと歩いていけばいいのだろうか。

よく飲んでいる紅茶のティーバッグの袋には「イングリッシュブレックファスト」と書かれていた。

話の区切りがついて、その相手と別れることができても、移動したところで特に話し相手がいなければ、一人で立ったまま飲んだり食べたりするだけである。

もしそこでふと目をあげて、さっきまで話しをしていた相手も手持ち無沙汰なふうで一人で立っているのに気付き、その瞬間に再び目が合ってしまったら……、などと考えると、その気まずさというか、気恥ずかしさというか、なんともいえないぎこちない心境になるのではないかと、ネガティブな妄想が膨らんでしまうのである。

だから、立食パーティでは、途中で司会がマイクを取って誰かにスピーチをさせるような状態になると、私は自分がどう振る舞えばいいかわかるので非常に安心する。立ったまま黙って、スピーチをしている人の方を見ていればいいだけだからである。ずっとこのように誰かに交代でしゃべらせていればいいのに、と思ってしまう。

なぜこうした「立食パーティ」なるものがセッティングされるのかといえば、おそらくは、さまざまな人と交流をして、知り合いになったり、意見や情報を交換したりするため、という実利があるとされているからであろう。

だが、院生時代から今現在まで、立食パーティで新たに知り合って連絡を取り合うようになったという人は一人もいない。立食パーティをきっかけにして、何かしらの仕事をもらったということもない。

もちろん、職場における歓送迎会などが立食形式で行われるのは問題ない。ほとんど知っている同僚たちであれば、会話のタイミングやリズムもわかるからだ。だが、初対面の人が多い立食パーティというのはとてもしんどい。

世の中の多くの人たちは、本当にこの立食パーティというもの楽しんでいるのだろうか。それとも、こういうものは社会の慣習としてすでに確立してしまっているから、あからさまに反対するわけにもいかず、良いも悪いもなくほとんど儀式のようなものとして受け入れているだけなのだろうか。

よく外国映画などで、立食形式のホームパーティのシーンがある。私はそういうものを見るたびに、自分はこうしたところでは楽しめないな、という思いを新たにする。呼ばれないけれども「呼ばれませんように」などとさえ思ってしまう。

あのような場にいる人たちは、本当に、楽しいのだろうか。

世の中で本当に立食パーティというもののニーズがあるのか、個人的には懐疑的なのだが、周りの人たちに「本当のところ、どう思っていますか」と聞くわけにもいかない。

聞いたところでどうしようもないので、決して聞くことのないまま、私は残りの人生を過ごすと思う。

(終)

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