飛行機を操縦するという夢に取り組まないでいること

少し前のことだが、用事があって、電車で2時間くらいかかるところへ出かけた。

途中で何度も電車を乗り換える必要があったが、その日はそう大した仕事ではなかったし、何よりとてもいい天気だったので、気分はよかった。

電車内も空いていて、自分以外に乗客はほんの数人しか乗っていない。こうしてよく晴れた日にガラガラに空いた電車に乗って、窓からぼんやりと青空を眺めていると、とても気持ちが安らぐ。高級レストランや海外旅行に行くよりも、はるかに上等な時間だ。きっと、死ぬ前に本当に懐かしく思うのは、こんなひとときなのではないかと思う。

乗っていた電車が山の方に近づいていくにつれて、周囲の家々よりも線路の位置の方が高くなっていった。

建物の屋根を見下ろしながら走るような形になり、視界がひらけて遠くまで見渡せるようになった。ずっと向こうには高層ビル群も見える。

ふとその時、遠くの青空に、米粒を横にしたような白くて細長いものがあるのに気付いた。旅客機である。普段、旅客機を見る時は真下から見上げる形になるので、黒いシルエットとして目に入ることがほとんどである。だが、今日は電車の走っている位置が高いことと太陽の角度のせいか、機体の白い色がはっきりと見えた。

雲ひとつない青空のなかで、その白色が不思議なほど際立っていたので、それは「飛んでいる」というよりは「浮かんでいる」ように見えた。

「夕日」の反対は「朝日」ではなさそうな気がする。

こんないい天気の日に飛行機を操縦して空を飛べるなんて、さぞかし楽しいのではないだろうか。私は、その飛行機のコックピットでサングラスをかけたパイロットが操縦桿を手にしている様子を想像しながら、そう思った。

私は子供の頃から飛行機やヘリコプターが好きで、いつかそれらを操縦してみたい、と思い続けてきた。その日たまたま飛行機を見かけたときも、やはり「いいなあ」という憧れの気持ちを抱いたのだった。

18世紀後半に、モンゴルフィエ兄弟の熱気球によって人類は初めて空に浮かんだ。それ以後、硬式気球なども登場したが、20世紀初頭におけるライト兄弟の飛行機の登場とその後の改良によって気球の時代は終わり、人はその新しい乗り物で機敏に空を駆け回るようになった。

最初期の飛行機は木と布で作られていたが、後の人々による改良の早さはすごいものだった。

エンジンが進化したり、機体の形状に工夫が加えられていったのみならず、ジュラルミンやアクリルなど新しい素材の登場もあって、ライト兄弟による初飛行のわずか40数年後には、超音速で飛ぶ飛行機が登場している。さらにその約20年後には、人類はロケットに乗って宇宙に飛び出し、月にまで降り立ったのであった。

「宇宙」というのは「空」の延長上にある。だが、私は不思議と宇宙やロケットにはさほど特別な関心を抱くことはなかった。理由は自分でもよくわからないが、とにかく飛行機が好きなのだ。特に、一人で操縦できる小さな飛行機に憧れてきたので、戦闘機が好きだった。

戦闘をしたいから戦闘機が好きだったというよりは、一人乗りで小回りのきく飛行機に憧れたのである。戦闘機以外にも一人乗りの小さな飛行機はあるが、目に入るものの多くは戦闘機だったので、結果的に戦闘機が素敵だと認識することになったのである。

小学生のとき、いくつも戦闘機のプラモデルを作った。それを持って眺めていると、子供ならではの想像力で、私は自分がその戦闘機のコックピットにおさまって操縦桿を握っているつもりになることができた。自転車に乗って近所を走っているときも、飛行機を操縦している様子をイメージしながら乗っていたことを今でも覚えている。

飛行機を操縦したい、という願望はいい年になった今でも消えていない。

だが、こうして飛行機を目にするたびに「いいなあ」と思うのであれば、具体的に行動を起こせばいいではないか、とも思う。戦闘機は無理でも、いわゆるセスナ機のようなものであれば、一人で操縦できるだろうから実質的に一人乗りのようなものだ。本当に、本当に、心の底から飛行機に憧れているのであれば、今からでも免許を取得することは不可能ではあるまい。

確かにそのためには、今の仕事を続けるのは難しくなるだろうし、別の国に引っ越す必要もあるかもしれない。貯金のほとんどもそのために使うことになるだろう。でも、本当に飛行機の操縦に憧れているのであれば、できるはずだ。

でも、実際には、私は今の仕事を辞めようとは思っていないし、外国に引っ越すことも考えていない。

きっと、私は飛行機を操縦するという夢を、今の生活をすべてなげうつほどの犠牲や手間を払ってまでは叶えたいと思っていないのだ。

以前、インドに行った時、ロボットのような形をした奇妙な鉄塔を見た。

今でも、こうして天気のいい日、電車の窓から遠く彼方の飛行機を目にすると「操縦してみたいなあ」と思ってしまう。だが、今日までその夢をかなえるための具体的な手を何一つ打ってこなかったことに、その夢に対する私の本音があらわれている。

それは「夢」とか「憧れ」という言葉で説明するものではあっても、実は最初から実現させることを志向したものではなかったのだと思う。

子供のときから、今日にいたるまで、たまたま空に飛行機などを見かけると「ああ、いいなぁ」と思い、それを操縦している自分をぼんやり空想をしてみたりする。でも、それは本当にそうしたいのではない。ただ、そう空想することで、ほんの数分でも頭の中で現実生活から離れて、リラックスした時間を過ごせるからである。それ自体が目的なのかもしれない、と今になってわかってきた。

だから、あの日、あの青空に浮かんでいた白い旅客機を見ていた数十秒間は、それが国内便なのか国際便なのかとか、高度何メートルを飛んでいるのだろうとか、そんな「現実的」なことには少しも考えなかった。

私が青空に浮かぶ白い飛行機を見て思ったのは、ただ、ああ飛行機が飛んでいる、きれいな形の乗り物だな、もし自分もあれを操縦できたら楽しいだろうなというだけのもので、現実的な技術とか、手続きとか、そういったものは思い浮かばない。

本当に実際にこの手で操縦桿を握ってみたいのではなく、むしろ、非現実的な空想であることを自覚しつつ、ただそのなかでぼんやりたゆたうこと自体が目的なのだ。

飛行機の操縦は、私にとって、そうしたぼんやりした時間を過ごすための定番の空想的題材なのである。

現実の生活をいったん脇に置いて、ただぼうっとしたい気分のときに、飛行機を操縦してみたいなと思い巡らすのが、少年時代から今でも続いている私の癖なのだ。そんなことに、この年になってようやく気づいたのである。

(終)

  • URLをコピーしました!
目次
閉じる