そういえば、あのお婆さんの名前を知らなかった

子供の頃、自宅から歩いて2分くらいのところに「ゲタ屋」と呼ばれる小さな店があった。「ゲタ屋」といっても履物を売っているわけではない。いわゆる駄菓子屋で、1個20円や30円のお菓子や、100~300円程度の安価なおもちゃが並んでいる店だった。

その店をきりもりしていたのは、小さなお婆さんだった。私が小学校1~2年生のときにすでにかなりの歳のお婆さんだったから、関東大震災と第二次大戦の両方を大人になってから経験したくらいの世代だったのではないかと思う。

店先にはお菓子やおもちゃが並べられており、そのすぐ奥が彼女の自宅になっていた。そのため、彼女は店を開けていても、客がいなければ奥の自宅部分の部屋でくつろいでいることが多かった。

私が兄とその店に行って、商品を見ながらあれこれしゃべっていると、お婆さんは客が来たと気付いて奥の居間からのんびりと出てくる、といった具合である。

ときどき、店に入ってこれとこれを買おうと決めても、なかなかお婆さんが出てこないことも珍しくなかった。テレビでも見ていたのか、それとも昼寝でもしてしまっていたのかわからないが、とにかく出てこない。「すみませーん!」と何度か大きな声で呼ぶと、ようやく彼女がのそのそと出てきて、こちらがお金を払うことができるという、今思えばのん気な雰囲気だった。

そのネコは、柵の外側にいるのかもしれないし、内側にいるのかもしれない。

その店が突然なくなったのは、私が小学校の3年生くらいの時だったと思う。当時、私と兄は「ゲタ屋がつぶれたな」と口にしていたことを覚えている。今になって思えば、それはあのお婆さんが体調を崩して店を続けられなくなったか、あるいは亡くなったかしたのだろう。それを「ゲタ屋がつぶれた」と、あたかも店の経営がうまくいかず失敗したかのような言い方で噂していたのだから、無神経なものであった。

私はよくその店で、発泡スチロール製の小さな飛行機を買った。手で投げるとよく飛ぶのだが、しばしば遠くに飛びすぎてどこかに行ってしまったり、木の上に引っかかったり、家の屋根の上に乗っかってしまったりしたので、そのたびに何度も買ったのである。

その他にも、けっこう妙なものを買ったが、記憶にあるものの一つに、手のひらの半分ほどのサイズのチューブ状のものがあった。

それは、フタを開けて中身を絞り出すと、先端の小さな穴から粘度の高い白い液体が出てくるのである。それはおそらく、今でいう木工用接着剤と同じような成分のものだったのではないかと思う。ただし、それはただの木工用接着剤ではなく、金や銀の細かな粉状のラメがたくさんは混ぜ込まれているものであった。

乾く前は牛乳のように白いのだが、乾くとその白い液体部分はほぼ透明になるので、中に混ぜ込められている金銀のラメだけが立体的に浮き上がり、キラキラと光るのである。

要するにそれは画材のようなもので、チューブの中身を少しずつ出しながら文字や絵を描くと、乾いたときに金や銀のラメによる文字や絵になるわけである。当時としては珍しいものだった。

小学校1~2年生のわたしは、なぜかそれがものすごく欲しくて、ある日お小遣いを握りしめてゲタ屋に行った。そしてお婆さんからそれを買うと、嬉しくて走って自宅に帰った。そのときのワクワクとした気持ちを、今でも覚えている。

初めて自分一人で買い物をした、という記憶は、ひょっとしたらそれかもしれない。

ところで、私はその老婆の夫や子供は、一度も見たことがなかった。ひょっとしたら離れて暮らしていたのかもしれないが、あるいはその時すでに天涯孤独だったのかもしれない。あのゲタ屋の老婆は、どんな人生を歩んできたのだろうか。

当時は、彼女の身の上についてなど、一度も考えたことはなかった。だが、あれから何十年もたって、自分が中年になってから、なぜかそれについて、ふと思いを巡らしたりするようになった。

ジグザグに移動すると、移動することが楽になったりするようだ。

彼女はその人生で、どんな楽しいことや、どんな悲しいことを経験してきたのだろうか。あのとき彼女は75歳くらいだったのか、85歳くらいだったのか。それとも、私が子供だったから年寄りに見えただけで、実はまだ65歳くらいだったのだろうか。考えたところで判明するものではないが、ときどきなぜか、宙を見ながら、ふと彼女のことを思い出したりする。

彼女がいなくなって何十年もたち、やがて私も離れた土地で生活するようになってから、ふと気付いたことがある。それは、実は私は彼女の名前を知らなかったということである。そのことを何十年も意識せずにいて、気付いたのは、なんと今日なのであった。

あの店で、何度も何度も、駄菓子や、飛行機模型や、ラメ入り接着剤のチューブなどを買って、それから40年以上もの年月がたった。それでもまだあの店やその老婆のことを覚えているのに、でも、私は、彼女の名前すら知らなかったということに今日まで気付かなかったのだ。

名前すら知らなかったのに、それにもかかわらず40年以上も彼女のことを覚えていて、そして時々、彼女はいったいどんな人生だったのだろうか、なんて考えていたというのは不思議なものである。

私がこれまでの人生のなかで出会った多くの人々のうち、彼女のように、名前を知らなくてもなぜか何十年たっても忘れない人もいる。しかし逆に、かつてはちゃんと名前を知っていたはずなのに、今ではすっかり忘れてしまい、二度と思い出さない人もいる。

だとすると、私自身もまた、私の名前を知らない誰かの記憶の中にも私のことが何十年も残ったりすることがあるかもしれない。そして、同時に、私の名前をかつては知っていたけれども今はもうその人の記憶からはとっくに消え去っていたりもするかもしれない。

私たちは、意外な人に覚えていてもらっていたり、あるいは忘れてもらったりしながら、生きている。

誰が私を覚えているのか、誰が私を忘れてしまったのか、それは永遠にわからないところが、なんだか神秘的で素敵である。そんなことをさっき風呂のなかでぼんやりと考えていたら、なんだか奇妙な安心感のようなものをおぼえたのだった。

(終)

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