昔は虫を手で捕まえるのが全然平気だった

今日は妙に暑かった。空気の湿度も高くて、そして、とても風が強い一日だった。

昼休みに、学生たちがキャンパスでサークル勧誘のチラシ配りをしていたのだが、強い風でチラシの束を吹き飛ばされて、それをなんとか拾い集めようとして、彼女たちはキャーキャーとはしゃいでいた。

事務棟で簡単な用事を済ませた私は、そんな彼女らを尻目に、自分の研究室のある建物に戻ろうと歩いていた。

だが、そのとき、ふと足元に、10センチくらいの長細いものがウネウネと動いているのに気付いた。それは胴体の両脇に足がびっしりと何十本もあるグロテスクなムカデだった。私も思わずキャーという声をあげそうになった。だが、そこはなんとかこらえて平静を装い、何事もないように歩き続けたのだった。

虫といえば、数ヶ月前、ある女性の同僚と同じ部屋である仕事をしていたときに、その部屋の窓から、比較的大きな虫が飛び込んできたことがあった。

私はそれを外につまみだそうと思ってティッシュを取り出そうとしたのだが、彼女は「あ、私こういうの平気ですから」と言ってさっさとその虫を素手でつまみ上げ、窓から外に放り出してくれたのだった。

私はそれを見て、なんだか面白くて、「ああ、ありがとうございます。助かりました」と笑いながら御礼を言ったら、彼女も笑い返してくれた。

ここに花があったと気付いた理由は、今日その脇を歩いたから。

私は大人になってから、急に虫を触ることが全く出来なくなってしまった。だが、小学生の頃は、素手でどんな虫でも捕まえることが出来ていた。単に可能だったというよりも、虫を捕まえて、それをいつまでも眺めていることが大好きで、それが何よりも楽しい遊びだったのである。

私の小学生時代は、ちょうどテレビゲームの「ファミコン」が普及した時期に当たる。周囲の友達は、みなファミコンに夢中だった。だが、私はテレビゲームをするよりも、また友達と野球やサッカーをするよりも、一人で虫を捕まえて、それを見ている方がはるかに楽しかったのである。

虫が大好きだった私は、同時に変な妄想というか、空想もしていた。それは、進化論を逆さまにしたようなものであった。

いわゆる「進化論」を当時の私は少し誤解しており、生物は適者生存を基本としつつ、とにかく単純な生物から複雑な生物へ、つまり知能の低いものからより高等な知能をもった生物へと直線的に発展していく、というふうに捉えていた。実際のダーウィンの進化論はそう単純なものではないのだが、小学生の私はおおむねそのように理解していた。

私はそうした理解を前提に、実は本当の進化は逆方向のものなのではないか、と空想していたのである。すなわち、実は単純な生物の方が「進化」の上位にあって、高等な知能を有しているとされている人間の方が原始的生物である、というものである。

というのは、知性があればあるほど、余計なことに悩んでしまうし、本能に逆らってあえて子孫を作らなかったりすることができてしまうからである。

生物の究極的な目的はすなわち子孫を残すこと、DNAを残すことであるとするならば、人間の知性というのは特に意味がないどころか、むしろ邪魔なのではないかと考えたのである。

私の考えたストーリーは次のようなものだった。すなわち、生物は確かにいったんは人間を頂点としたところへと「進化」した。しかし、やがて人間は、知性や複雑な身体は無い方が有利だと気付いて、無意識のうちにさらなる進化を拒み、むしろ逆の方向を志向するようになって進化の方向をいわば逆転させていった、というものである。

今こうして思い返してみても、いろいろ無理があって何だかよくわからない発想だが、当時の私はわりと本気でこうしたことを一人で考えてワクワクしていたのである。

そのような空想において、進化の先にある真に高等な生物として私が具体的にイメージしていたのは、虫だったのだ。

私の実家の庭には、種類の異なるアリの巣がいくつもあった。それぞれの巣の周りでは、アリたちが行列をつくり、絶え間なく歩き続けている。私は、そのアリの行列の動きをひたすら眺めるのが好きだった。彼らが何を考えどのような一生を送っているのか、不思議でならなかったのである。

アリが行列をなしていそがしく歩いている様子は、いくら見ていても見飽きることがなかった。

来週もこの自販機でリンゴジュースを買ってからゼミに行こうと思う。

また、大きな石をどかすと、ダンゴムシが現れる。私はそれを何匹もつかまえてはポケットに入れていたので、母親から「気持ち悪いからやめなさい」と何度も注意された。

アジサイに集まる黄色いヨコバイも、たくさんつかまえた。ナツミカンの木には、毎年夏に多くのアゲハチョウの幼虫が現れた。緑色の幼虫は、割り箸で軽くつつくと、頭から臭い匂いを放つ黄色い角が出てくる。それを気味が悪いと思いながらも何度も繰り返して、観察していた。

だが、私の虫への接し方は、今思えばずいぶんと残酷なものでもあったと思う。私はトンボやチョウをつかまえてはアリの群れのなかに置き、それにアリが一斉に群がって食い殺していく様子をじっと観察したりもしていた。

私の実家の庭には、子供の背丈ほどの大きさの金属製の焼却炉があったのだが、私はその中でゴミが燃やされているとき、火で熱くなっているその焼却炉のフタの上に、オオクロアリを置き、それが熱さで暴れる余裕さえなくあっというまに丸まって死んでいくさまを幾度も繰り返して、観察したりもしていた。

自分が死んであの世に行ったら、それらの虫たちに謝らねばならない。子供時代に一度も虫を殺さなかったという人はいないだろうが、それにしても、ひどいことをしていたなと思う。

だが、われながら奇妙なのは、私は熱心に虫を眺め、たくさん捕まえては、しばしば残酷に死なせていたのに、その一方で、実は人間よりもそうした虫をはじめとする単純な生き物の方が「進化」した生き物かもしれないと空想していたということである。

今思うと、なんだか矛盾しているようにも感じられる。あの時、私は虫たちを指先でつまんで、それらをしげしげと見つめながら、いったい何をどう感じていたのだろうか。

自分よりも虫の方が高等だと空想していたからこそ、ある種の嫉妬や憎しみのようなものが芽生えて、そうした虫たちに対して残酷なことをしていたのだろうか。

それとも逆に、虫をつかまえたりいじったり、しばしば残酷なことをしていた罪悪感のようなものから、実は彼らの方が高等な生き物なのかもしれない、という空想を作り上げていたのだろうか。

どちらなのか、あるいはどちらでもないのか、今でもよくわからない。

自分自身の子供時代の思考や感性は、本当に謎である。

あの頃の私は、いったいどんな表情をして、虫を捕まえたり、眺めていたりしていたのだろう。そうした瞬間に撮った写真は残っていないけれど、もしその時写真を撮られていたとしても、その瞬間だけは写真を撮られるための表情をしていただけであろう。

小学生でも、きっとそのくらいの演技はできたに違いない。

(終)

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