メガネをかけたまま風呂に入ってしまったこと

先ほど、風呂に入ってきた。

我が家の風呂場の天井は、コンクリートか何かのうえに薄いベージュ色の塗装がなされているような造りになっている。

いつものように、湯船に入る前にシャワーで身体を流していたのだが、その時ふと天井を見上げた。そのとき初めて、天井の全体に細かくうっすらと規則正しい模様が入っているのに気付いた。「この天井には、こんな模様があったのか」と新しい発見をした気分になった。

ここに引っ越してきて、もう3年か4年くらいたつだろうか。だが、これまで一度も、風呂場の天井にこうした模様があるとは気付かないまま過ごしていたのだ。毎日目に入っているはずなのに、でも今日まで全く気付かないなんていうこともあるものなのだなぁ、などと思った。

私たちは、身近なものに限って意外と忘れたり、見落としていたりしているものである。

そんなふうに考えながら、シャワーのお湯を顔にかけた……、その瞬間である。私は、自分がメガネをかけたままであることに気付いたのであった。

メガネにお湯がかかって、レンズが雨の日の車のフロントガラスのようになって初めて、私はメガネをかけたままシャワーを浴びていたことに気付いたのだった。

夕方は曇り空だったけれど、地上にはオレンジ色の果物。

どおりで、普段は見えなかった天井の細かな模様まで見えたはずである。

これまでは、毎日ちゃんと風呂場に入る前に、洗濯機の上にメガネを置く習慣があったのだが、今日はなぜかそれをすっかり忘れて風呂場に入ってしまったのだ。こんなこと、初めてだったかもしれない。

いつもはメガネを外していたから、風呂場の壁や天井の細かなところは見えていなかったというだけだったのだ。今日はたまたまメガネを外し忘れたから、天井の細かな模様に気付いたのである。見えている、ということの不自然さに全く気付かなかったのだ。

天井を眺めて「へぇ、天井にはこんな模様があったんだ」と思ってから顔にお湯をかけるまでの間は、せいぜい十数秒だっただろうか。極めてわずかな時間だったはずだが、そのあいだに「人間というものは非常に身近なものでも、意外と気付かないことがあるものだ」などと話を一般化して考えていたのだからおかしなものである。

単に物理的な環境が違ったので見つけることができたものを、偶然的な気付きによるものだと思い込んだということが、われながら滑稽だと思った。

私がメガネをかけ始めたのは、高校生の時からである。その時にはもうメガネをかけることについて特別な感慨はなかったが、小学生のときはメガネという物にとても憧れたことをよく覚えている。

ただし、メガネをかけている人たちがすべて格好良く見えたとか、美しく見えたとか、そういうわけではなかったと思う。メガネを洒落た装いだと感じて憧れたというよりも、透明な2つのレンズという精密な装置を、人体で一番目立つ部分である顔に装着することが許されている人たちを、単純に羨ましく思ったのである。

父もメガネをかけていた。

父は私がメガネに興味をもっていることに気付いて、ある日、「メガネは無いほうが楽だよ。視力は良いにこしたことはない」という主旨のことを言った。別にメガネをかけたからといって、特別なものが見えるようになるわけではなくて、目の悪い人はメガネをかけることで、ようやく普通のレベルに見えるようになるだけだ、と説明してくれた。

マイナスがゼロになるだけであって、ゼロがプラスになるわけではない、というわけである。

マクドナルドの前を疾走するバスに乗っているのは、どんな人たちか。

だが、そうした父の説明も、私のメガネに対する憧れの気持ちを少しも減じることはなかった。

メガネをかけて、レンズ越しに周囲を見るようになったら、歩いていても楽しいだろうし、走っても楽しいだろうし、メガネ越しに本を読むのも楽しいに違いない、と私は信じて疑わなかったのである。

世の中の物体は、不透明なものがほとんどである。服も本もテレビも机も椅子も、みな不透明である。確かにガラスの皿とか、コップとか、あるいは窓ガラスなど、メガネの他にも透明な物はある。だが、それらには何ら惹かれるものがなかった。

水とか、氷とか、昆虫の羽とか、一部の魚とか、自然界にも透明や透明に近いものもないわけではないが、それらにも透明であるがゆえに興味をもつということはなかった。

透明であればいいというわけではなく、やはりメガネは顔の中央に装着するというところが重要だったのかもしれない。私にとってそれは、戦闘機のキャノピーやレーシングカーのヘッドライトのような感じのもので、つまり格好のいい部品・装置のようなものとしてイメージされていたのだと思う。

高校生や大学生になってからは、メガネに対してそのような思いを抱くことはなくなった。

今ではメガネは文字通り顔の一部のようになり、単なる生活用品の一つである。それを常に顔に装着していることについて、特別な意識はない。

もはやメガネに特別な思い入れなどないからこそ、今日はそれを外すのを忘れたまま風呂に入ってしまったのだろう。

少年時代、心の底からメガネに憧れていたことを、懐かしく思い出す。もし今日、メガネを外すことを忘れなかったら、メガネに関する何十年も前の記憶も忘れたままだったかもしれない。

一つのことを忘れたことで、別の一つのことを思い出したという次第である。

(終)

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