「目が笑っていない」や「目が綺麗だ」の謎

昨夜、ぼんやりとテレビを観ていたら、あるお笑い芸人のグループがコントのような寸劇をしていた。

そのなかで、一人が何かおかしなことを言って自分で笑うのだが、もう一人のメンバーが彼に対して、「おい、お前、目が笑ってないぞ!」とツッコミを入れる場面があった。

私はそれを見て、そういえば自分はこの「目が笑っていない」という言葉・指摘の意味がいまだによくわからないでいる、ということを思い出した。

アリやセミやチョウはほとんど表情が変わらない(ように人間には見える)。だが、人間の顔というのは、不思議なほどいろいろな表情をしてみせることができる。手などを使う「しぐさ」や「ジェスチャー」には文化によって異なる意味を持つものもあるが、笑った顔、泣いた顔、怒った顔などは、基本的には人類共通といえるだろう。

一般には、口角をあげて歯を見せたりすれば、それで「笑っている」とみなされる。しかし、ときどき、そうした表情をしてみせた人に対して、「あいつ、口では笑ってはいるけれど目は笑っていないな」などと指摘する人がいる。そしてそれを聞いていた他の人も「そうそう、目は笑ってないな」などと同調したりする。

私はそういう会話の場に何度か居合わせたり、あるいはそうしたセリフをテレビや映画で何度も観たりしたが、どうもその意味がピンとこないのである。

私には、笑っている人は笑っている、笑っていない人は笑っていない、という判別しかできないからだ。実際に誰かと話をしていて、相手の鼻や口は笑っているけれども「目だけは笑っていない」ように見えたということは、一度もない。

製図セットを使って遠近法の描き方を習ったのは中学生のとき。

もちろん「ニヤニヤと笑っている」とか「クスクスと笑っている」とか「爆笑している」とか「皮肉な笑いをしている」とか「悪だくみをして笑みを浮かべている」など、場面によって笑顔の描写の仕方が異なることはわかる。しかし、「目は笑っていない」というのだけはどうもイメージできないのだ。

だから、誰かが誰かを指して「あいつ目は笑ってないな」と言っても、私はいつも心のなかで「え、あれが〈目が笑っていない〉っていう表情なの?」と思ってしまう。人は本当に「目」だけを見て、笑っているかいないか区別できるのだろうか。

私はそれができないので、いまだに戸惑うのである。

ひょっとしたら、「目が笑っていない」という言い方は、実は目の形状や笑いそのものに関する事実認識を指しているわけではないのだろうか。

つまり、誰か気に食わない人物が笑っている際に、その人やその状況にケチをつけるための口実、あるいは言いがかりのようなものとして「目が笑っていない」という言い回しをするという文化がある、ということで、つまり「慣用句」のようなものなのだろか。そんなこともわからないまま、気付いたらこんな年齢になってしまっている。

実は、同じように、「目が綺麗だ」という表現もよくわからない。

素敵な美男美女というのは確かにいる。爽やかな表情というのがあることもよくわかる。しかし、「目」という顔面の1つのパーツだけを指して、それが「綺麗だ」と批評するのは、その意味がよくわからないのである。顔は全体のバランスで個性が決まるから、「目」だけが綺麗、ということはありえないと思うからである。

私は誰かを見て、ああこの人は目だけが綺麗だな、と思ったことは一度もない。しかし、この「目が綺麗」という言い回しもまたテレビや映画などでたびたび耳にするので、ひょっとして私以外の人たちはみな、他人の「目」の造形や輝きを、それ自体としてきちんと見極められるのだろうか、それができないのは私だけなのか、と不安になってしまうのである。

それとも、この「目が綺麗ですね」といった表現もまた、別に本当に「目」そのものを褒めているわけではないのだろうか。

つまり、本当は単に「あなたは美人ですね」「あなたの顔が気に入った」と言いたいところを、その言い方では直接的過ぎるので、これもまた「目が綺麗ですね」という言い回しをするという慣習があるというだけのことで、つまりはこれもまた「慣用句」のようなものなのだろうか。これについても、よくわからないまま、こんな年齢になってしまった。

この自動車は人間でいったら48歳くらいかな、などと勝手に考える。

そういえば、「目」といえば、「話をするときは、相手の目を見て話しましょう」という規範のようなものがある。これは世界共通の「礼儀」「マナー」なのか、現に人々のあいだでよく言われていると思う。

私は、いちおう社会人なので、誰かと話をするときはなるべくそうした「マナー」に従って相手の目を見るように努力はしている。でも、本音としては、私にとってそれは非常に話しづらいやり方なのである。

というのは、早い話が、相手の目を見ながら話すと、気が散ってしまい、話している内容に集中できなくなってしまうのである。

まず、話を始めると同時に、「ええと、相手の目を見て話をしなきゃ失礼にあたるんだよな」といちいち意識しないといけなくなるし、大事なことを話しているその最中に相手の目がキョロキョロ動くと、それ自体が気になってしまう。

相手が私の目をじっとまっすぐ見ているのに気づくと、今この相手も「相手の目を見よう」と意識しているのかな、などと想像したりして、要するに気が散ってしまう。

ちゃんと相手の目を見て話せと小さい頃から言われてはいたが、昔からそれはけっこう難しいと思っていて、それは今の年齢になっても変わらない。

他の人たちは、相手の目を見て話をして気が散ったりしないのだろうか。本当に、この世のほとんどの人は、話をするときはちゃんと相手の目を見るべきだ、それが自然だ、と思っているのだろうか。

「目が笑ってない」とか「目が綺麗だ」とか「相手の目を見て話しましょう」とか、いずれも、これまでわかったふりをして生活してきた。その意味がよくわからないな、とか、面倒だな、とか、気が散るな、など、思うところはある。

だが、まあ、なんとなくわかったふりをして、だましだましでも、なんとかこれまで普通に生きてはこれている。

(終)

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