克服できない人の本性や傾向というもの

今日、昼に研究室で一人で弁当を食べながら、ネットのニュースを見ていた。そうしたら、ちょっと残念なニュース記事が目についてしまった。

ニュースとして報道される出来事というのは、しばしば非日常的なものであることが多い。今日私が見たそのニュースも、その出来事自体としては珍しいものではあった。しかし、人間の普遍的な傾向の表出という意味では、むしろありきたりなものだとも言えるような気がした。

人間は、時とともにさまざまなことを進歩・発展させてきている。典型的には科学や技術がそうであるが、法制度や教育制度、福祉制度なども、改善を重ねて現在にいたっている。

社会のなかにあるほとんど物や制度は、基本的には前の時代のものよりも後の時代のものの方が良くなっている。暴力や差別などに対する人々の考えや態度も、昔と比べれば現在はずっとまともになってきていると言えるだろう。

だが、その一方で、私たち人間の根本的な本性や傾向には、2000年たってもなかなか変わらない部分もある。良い意味で変わっていない部分もあるけれども、やはりどうしても悪い意味で変わらない部分が目についてしまう。

人間のそうした側面は、しばしば文学作品のなかで鮮やかに描かれてきた。ことわざや慣用句になって人口に膾炙しているものもあるし、神話や宗教の教典でも言及されてきた。例えば、キリスト教の『聖書』における次の箇所は有名だ。

「階段」には「門」や「塔」と似た何かがある、と思いはじめて約1年。

ある日、律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女をイエスの前に連れてきた。そして彼らはイエスに対し、こういう女は石で打ち殺せと律法には書かれているが、あなたはどう考えるか、と尋ねた。

イエスは彼らをあまり相手にしたくないような素振りを見せるが、彼らがあまりにもしつこく尋ねてくるので、次のように答えた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。

すると、集まっていた者たちは、一人、また一人と立ち去っていき、最後にはイエスとその女だけが残された……、という話である。

もちろんこの箇所については、当時のユダヤ教社会とイエスとの葛藤を考慮に入れて解釈する必要がある。だが、そうした聖書学的な点は保留にして、ただ単純に普遍的な人間の行動パターンとしてこのエピソードの表面だけを眺めることも、不可能ではない。

私たちは、多かれ少なかれ、誰かの言動を非難したり断罪したりすることを好む、という性質をもっている。何か正当だと思われる理由があれば、表向きは険しい顔をしつつも、しかし心のなかではちょっぴりウキウキして、奇妙な高揚感をもおぼえながら、その対象となる人物を非難し、攻撃するのだ。

確かにその人物に対して、不愉快だとか、許せないとか、正義に反するとか、そういった思いは持っている。だが同時に、本音としては、そうした相手を攻撃できることにそこはかとない安心感というか、満足感というか、あるいは喜びのようなもの、快楽のようなものを感じたりしていることは珍しくないであろう。

誰かを非難・断罪している自分自身は、これまで何も間違ったこと、悪いこと、恥ずかしいことをしたことがないのかというと、決してそんなわけではない。それは、自分自身がよく知っている。

だが、それにもかかわらず、人は自分のことは棚に上げて、かすかな理由さえあれば誰かを非難したがる。それが義務であるとさえ感じる。

私たちのこうした傾向は、2000年前も、21世紀現在も、ほとんど変わっていない。

『聖書』には次のようなエピソードも書かれている。イエスが祭司長や律法学者たちによって捕らえられ、それから十字架につけられるまでのあいだの出来事である。

周知の通り、イエスはユダの裏切りによって捕らえられた。それから彼は最高法院に連れて行かれ、尋問されたり殴られたりして、その後、ユダヤ総督ピラトのもとに送られる。

福音書によれば、総督ピラトは、イエスについて死刑に値するほどの罪があるとは思えなかった。当時は、祭りの際に、捕らえられている囚人の誰か一人を釈放するという慣例があったので、ピラトはこの慣例にならってイエスを釈放しようと考えた。

ところが、ちょうどその時、人殺しの罪でバラバという男が投獄されていたので、群衆は口々に、イエスは殺してバラバの方を釈放しろと叫び始めたのである。

そこで、総督ピラトは再び群衆に対して、このイエスという男がいったいどんな悪事を働いたのか、と問いかけた。しかし、人々はそれには答えず、ただひたすら「イエスを十字架につけろ」「十字架につけろ」と叫び立てたのであった。

そのため、結局ピラトは群衆を満足させようとして人殺しのバラバの方を釈放し、イエスを十字架刑に処するために引き渡してしまったのである。

この時の群衆、すなわち、バラバの方を釈放してイエスを十字架にかけて殺せ、と叫んだ人々は、その時は自分たちの主張がめちゃくちゃであるとは思わなかっただろう。これは決して、群集心理的な過ちといったものではなく、端的に人間に本性的に備わっている愚かさのようなものだと思う。

何かを捨てて、何かを告白する。

その人物がいったいどういう悪いことをしたのか、という単純な問いにさえ十分に答えられなくても、それでも人は、自分たちの正義感のままに、当該の人物を罰すること、時には死なせることをも、熱狂的に求めてしまうことがある。いじめや、差別や、戦争はもちろんだが、もっと身近な人間関係にもその小さな萌芽はよく見られる。

しばしば人は、「善と悪」「罪と罰」「生と死」について、じっくり考えることよりも、とにかく鉄槌を下すことを好む。自分に何の利益がなくても、なぜかそれを求めるのだ。

多くの人間に見られるこうした意味不明にして理不尽な傾向もまた、2000年前と、21世紀現在とで、ほとんど改善していないとしか思えない。私たちは、誰もが、そうした危険でめちゃくちゃな判断をしてしまう可能性を持っている。

自分の悪と他人の善は小さく見えて、自分の善と他人の悪は大きく見えるのが、人間というものである。人はしばしば善意によって悪をなすが、仮に悪だと自覚して何かをすることがあっても、誰々のやっている悪と比べれば自分の悪は小さな悪に過ぎない、と自らを大目に見てしまう。

人は、自分自身を弁護することに関しては、世界中の誰よりも優れている。

そういう、恐ろしくて恥ずかしい本性や傾向が、自らのうちに確かにあることを素直に認めることが、本当の意味での「知恵」であろう。

ただし、そうした本性や傾向があることを認めることができても、それらを努力によって克服できると思っていたら、それはまだ「知恵」ではないと思う。

というのも、それは人間的な「反省」だけでは克服できない根本的な性向であり、人間に普遍的・本性的な愚かさとして、宗教的次元で受け止めるしかないものだからである。

自らのどうしようもなさを、静かに見つめ、表現すること。それを「祈り」と呼ぶこともある。

(終)

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