わりと奇妙な夢を見て、夢の貴重さに気付く

昨夜は、けっこう変な夢を見た。

私はよく夢を見る方だと思うのだが、しかし、ほとんどの場合、それらはきわめて短い一瞬の場面でしかない。全体としてストーリーがあるようなものではないのだ。夏目漱石の『夢十夜』にあるような、人に伝えるほどの内容はないことがほとんどである。

「昨日こんな夢を見た」と言って話してくれる人の夢は、だいたいストーリーとしてまとまっている。そういうのを聞くたびに私は、自分がみる夢と根本的にタイプが違うと思ってしまう。

私のみる夢は、どれもこれも数秒くらいの場面の断片ばかりだからだ。だから、夢を見ても「こんな夢を見た」と人に説明することはほとんどない。

ところが、昨夜の夢は、比較的まとまりのある内容のものであった。次のようなものである。

私は電車に乗っていた。都心を走っている普通の電車で、座席はほぼ埋まっている。私は吊り革につかまって立っていた。私には目的地があり、その電車は急行か準急なので、途中の駅で降りて、別の列車に乗り換える必要があった。

電車はやがてある駅に着いたので、私はそこで乗り換えようと思って下車したのだが、なぜかその時、自分はまたすぐにこの車両に戻ってくると思い込んでおり、自分のカバンをたまたま空いていたすぐ近くの座席に置いて、そのまま自分だけ車両から降りてしまったのである。

だが、ホームに降りてから、電車の扉が閉まり始めたその瞬間に、自分がその電車内にカバンを置いてきたのは間違いだったと気付いて慌てるのである。

わりといい年になっても、まっすぐな道を見下ろしていると、それだけで結構楽しい。

だが、取りに戻ろうと思った時にはもう電車の扉は完全に閉まってしまい、それはすぐに発車して行ってしまった。

そこで私は、近くにいた背の高い若い駅員に、たったいま出発したあの電車にカバンを置き忘れてきてしまったと伝え、どうにか次の駅で向こうの駅員さんに確保しておいてもらえないかと頼むのであった。

すると、その若い駅員さんは、私に顔を近づけて、無表情のまま「むしろよかったですよ」と、囁いたのだ。「もしすぐにそのカバンを取りに車内に戻っていたら、死んでいましたよ」と言ったのである。

私は彼が何を言っているのかわからなかったのだが、ふと気が付くと、駅の構内には、人間に混じって人間のような姿をした宇宙人が大勢うろうろしており、もはや安全な場所ではなくなっていたのである。

私はそれを見て、もしさっき、電車が出発する寸前に車内に戻ってカバンを取っていたら、車内で「あいつら」に囲まれて死んでしまっていただろう、と確信したのであった。だから、カバンは失ったけれども少しも嫌な思いはなく、むしろよい選択をした、と安心したのだった。

このような夢であった。

映像にしたら1分にもならないのではないかと思うが、私が見る夢としてはわりと長いシーンのものだったと思う。もちろん、この夢のいわゆる「意味」はまったくわからない。

夢占いとか、夢判断とか、古今東西には夢にまつわるいろいろなエピソードや文化がある。旧約聖書の「創世記」にはヨセフによる夢解きの物語がある。新約聖書でも、イエスの親であるマリアとヨセフには「夢」で何度かのお告げがあったと書かれている。神話や宗教に「夢」はさまざまな形で登場する。

大学院生の頃、一時期フロイトの宗教論を勉強しようと思って彼の主要著作に目を通した。当然彼の『夢判断』も読んだ。その時は「なるほど」と思ったが、それを読んだからといって、それ以降、自分が毎晩みる夢についてなにがしかの解釈ができるようになったわけではない。

46億年前には、そもそも土地というものが存在しなかった。

夢というのは、結局よくわからないものである。夢をみているその時は、怖かったり、面白かったり、懐かしかったりする。目が覚めて、夢だったとわかって心底安心したりするような夢をみることも少なくない。だがそれでも、その夢の「意味」はわからないままである。

前の日や、さらにその前の日に経験したこととか、心配事とか、身体的問題などが、何らかのストーリーの形をとって夢となって現れる、ということは確かにあるかもしれない。だが、総じて夢は、それをみた本人にも理解できない。

そもそも、自分の夢はこの世で自分一人しか見ることはできない。しかも、たった一度しか、見ることができない。

こう書きながら、今更ながら気付いたが、夢は自分自身しかみることができず、しかもたった一度しかみることができない、というのはなんだかすごいことだと思う。

映画を見たり、小説を読んだりして、感動したり、怖かったり、面白かったり、感心したりすることは、そのこと自体が人生経験の一部である。同じように、夜寝ているときに夢をみて、その恐怖に怯えたり、美しさに感動したり、あるいはわけのわからなさに首をひねったりすることそれ自体も、人生経験の一部である。

私は子供の頃、たぶん幼稚園児のころだが、その時にみた怖い夢を、いまでも覚えている。20代と30代の前半までは、やたらと空を飛ぶ夢をみることが多かったことも覚えている。

これからも、死ぬまで、いろいろな夢をみることだろう。

この世の誰とも共有できない映像作品を、この世で自分だけ、しかも一作品について一度だけ、今後いくつもいくつもみることになる。そう思うと、少し感慨深いものである。

(終)

  • URLをコピーしました!
目次
閉じる