つまり知らない人の顔というのは珍しい

しばらく前から、鏡を見て白髪に気付くようになった。

年相応なので、そのこと自体は少しも嫌ではない。むしろ面白いとさえ感じている。

とはいえ、今日の午後、トイレに行ってその後で手を洗いながらふと鏡に映った自分の顔を見て、やはり昔よりは年をとったな、と当たり前のようなことを思ったりした。

顔というのは、ほんのわずかな目や口の形、あるいは肌の様子や髪型などで、ものすごく印象が変わるものである。

自分の顔は、鏡に反射させるか、写真に撮るかなどして、間接的にしか見ることができない。背中や尻などもそうだが、自分の目で自分の顔を直接見ることは一生不可能なのである。

なんだかそのことは、人間というものの運命を象徴しているようでもある。

一方、自分の目で直接見ることができる自分の身体の部位のうち、最も見る頻度が多いのは、手ではないだろうか。今こうしてパソコンで文章を書いていても、自分の手は常に視界に入っている。手ほど自分自身の視線を浴びる時間のながい部位はないであろう。

今年から東京の大学に移ったA先生は、元気にやっているだろうか。

だが、手そのものにはあまり年齢による違いは現れない。全く現れないわけではないが、顔ほどではないだろう。手にも「表情」がないわけではないけれども、それも顔の比ではない。

私は、街や駅や電車の中などで、よく周りの人の顔をじろじろ見てしまうタイプである。それは、人の顔は実に個性的であって、人口の数だけバリエーションがあるので、つまりは見ていて飽きないからである。

動物園というのは、珍しい生き物に出会える場だとされている。だが、動物園に行ってライオンやキリンを見ても、いつかテレビや本などで見たライオンやキリンと区別がつかない。

しかし、人間は、知らない人であれば初めて見る造形の顔ばかりで、個体によって違いが大きい。はっきり言って、動物園の動物よりも、そこらへんですれ違う知らない人の顔の方が、ずっと「珍しい」のである。

駅やショッピングセンターに行けば、周囲を行き交うのは初めて見る顔の人ばかりである。こういう顔の人がいるのか、と妙に感心してしまうことも珍しくない。驚くような美人もいれば、実に個性的な髪型の人もいるし、性格やお人柄をが表れているような顔の人もいれば、年齢がさっぱり見当もつかないような顔の人もいる。

生まれつきの造形に加え、髪型や化粧によって、あるいは服装によっても印象は変わるが、やはりその人のそれまでの人生経験も、現在の顔の造形になにがしかの影響を与えているのであろう。

人の顔は、まずは遺伝的な要素によってその人のベースとなる顔が与えられて、それから、幼稚園やその後の学校などでの人間関係、あるいは職場や仕事内容、生活環境などを通して、じっくりとその顔をその人独自のものにしていくのであろう。

人によっては、顔だけで誰かから好意をもたれたりする場合もあるだろうし、あるいは顔だけで人から怖がられたりする場合もあるかもしれない。

自分の顔に不満を抱き、悩む人もいれば、その顔で人から羨ましがられたり、自らの顔をいわば商売道具として活用したりする人もいる。美人やハンサムでも不幸な人もいれば、美人やハンサムではなくても幸せな人もいる。

もしこの鉄骨の色が、ブルーではなく、イエローとがピンクだったならば。

写真術が普及したのは19世紀の後半からだから、人類が顔を正確に保存・記録・伝達できるようになった歴史はまだ浅い。

ソクラテスは、いわゆるハンサムとは程遠い顔だったという複数の証言がある。ブッダやイエスはどんな顔だったのだろうか。個人的には、キリストであると信仰されるようになったイエスという男の顔がどんなだったかについては興味がある。

仮にイエスの顔を知ることができたところで、私の人生に決定的な変化が起きるわけではないだろう。だが、それにも関わらず「見てみたい」と思ってしまうくらい、顔というのはただそれだけで興味をそそるものなのだ。

ブッダにしても、ソクラテスにしても、イエスにしても、彼らの時代はカメラはもちろんなかったし、鏡さえ今ほどは普及してはいなかった。一生のうちで、自分の顔の全体を細部までじっくり眺めるということは、ほとんどなかったのではないだろろうか。

現代は、自宅にも職場にも駅にも店にも、エレベータの中にも、いたるところに鏡があるので、私たちは毎日何度も自分の顔を見ている。だがブッダやソクラテスやイエスは、そう何度も自分の顔を見なかったはずだ、と思うとなんだか不思議な感じがする。

彼らよりさらに昔、4000年前や5000年前の一般庶民は、水面に写ったやや不鮮明な顔を見るのがせいぜいで、一生に一度も自分自身の顔の細部を見ることなく死んでいったのだろう。それは、今の私たちからすると、驚くべき一生のようにも感じる。

自分の顔をよく知った上で他人の顔と自分の顔を見比べて、あれこれ考えたり、何かを思ったりするという習慣は、人類史全体からすると、つい最近始まったものである。

もしかしたら、鏡や写真によって自分の顔を他人の顔と見くらべるという習慣が、人々の意識に何らかの変化をもたらし、人間としての自己認識、人間関係のあり方、さらには社会制度の形などにも、意外と大きな影響を与えたのではないだろうか。

現代では、何か事件が起きると、「名前」と同様にその人の「顔」を報道するか否かが問題になったりする。

人は、少なくとも現代人は、究極的には自分の「顔」についてどう思われるかというその問題のために生きているといっても過言ではないのかもしれない。

(終)



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