ゲームにはまらなかった理由に気付く

「思い出す」と「懐かしむ」は、かなり違う。

子供のころから、国語でも算数でも、「問題集」が嫌いだった。本はよく読んでいた方だと思うが、問題集に取り組むという作業だけは、とにかくつまらなくて仕方がなかったのだ。それは私にとって、マイナスをゼロにするだけのような、何も生み出さないくせにただ面倒なだけの作業としか感じられなかったのである。

勉強が苦手というよりも、とにかく問題集が嫌いだったのだ。大学に入ったら勉強の面白さに気付いてとても驚いたが、それは大学での勉強は、語学を除いて、いわゆる問題集など無い世界だからかもしれない。

ところで、私が小学生の時、ファミコンが登場し、テレビゲームが大流行した。まわりの友達はみなそれに夢中になっていたが、私はほとんど興味を持たなかった。だから、親にそれを買ってくれとねだったこともない。一人で外で虫を捕まえたり、一人で工作をしたり、一人で本を読んだりしている方が楽しかったのだ。

大人になって、しばらくして、自由に使えるお金が手に入るようになってから、気まぐれであるゲーム機を買ってみたことがある。ところが、やはりすぐに飽きてしまった。その時に、私は私にとっては大きな発見をした。というのは、私にとってゲームをやるという行為は、「問題集」を解く作業と似たようなものだと感じてしまうと気付いたのである。

すでに誰かが「問題」を用意していて、自分は粛々とそれに取り組み一つずつクリアしていく、という作業全体の根本性質において、ほとんどのテレビゲームは国語や算数の問題集を解くのと酷似している。子供の時、あれだけ流行っていたにもかかわらずゲームに興味を持たなかったのは、そのことに直感的に気付いていたからかもしれない。

ガラケーからスマホの時代に変わってからも、ゲームはほとんどやっていない。興味本位でいくつかダウンロードして試してみたけれど、やはり問題集を解いているのと同じようなつまらない気分になって、すぐに飽きてしまう。昔も今も、この点に関しては変わっていない。

自分の好き嫌いや、その理由と他との関連性などについて、ある日突然気付いたりするのは、それなりに歳をとってきた証拠だろうか。







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