いろいろなことを教えてもらって生きてきた

小学生の時、ある日突然「蝶々結び」が出来るようになった日のことを、なぜか今でもよく覚えている。

「蝶々結び」は、歩いたり走ったりするのとは違って、自然に出来るようになるものではない。誰かにきちんと教えてもらって、初めて出来るようになるものであろう。

私が自らその結び方を発見したという可能性はゼロに近く、両親か、あるいは祖母などから教えてもらったに違いないのだ。

ところが、明らかに誰かから教えてもらったはずであるにもかかわらず、その蝶々結びの結び方を教えてもらっている場面の記憶はほとんどない。私の記憶にあるのは、ある晴れた日、玄関で、初めて一人でその結び方をやってみたところうまく結べた、という情景だけなのである。

いま思うと、少し不思議に感じる。

「すべり台」は英語では「スライド」と言うのだと知ったとき、なんとなく「それでいいの?」と思った。

でも、これは蝶々結びだけの話ではないだろう。私が身につけている知識や技術のほとんどは、誰かから教えてもらったものに他ならない。

それにもかかわらず、いつ誰からどのように教えてもらったのかを覚えているものは少なくて、それどころか「自分一人で出来るようになった」と思い込んでいるものがけっこう多いのだ。

普通、何かを教わっているときは、教えてもらうその内容に集中しているので、第三者の視点から「教えてもらっている自分」を観察する余裕などない。だから、何かを教わっている様子を覚えていることは少なくても当然なのかもしれない。

教える側としても、教えてあげている様子のことなど覚えていなくていいから、教えている内容をちゃんと覚えたり身に付けたりしてくれ、と思うものであろう。だから、まあ、これでいいのかもしれない。

私の世代は、パソコンの使い方を学校で教えてもらうということは全くなくて、ほぼ全て自分でいじりながら使い方を習得した。ただ、大学時代にH君という非常に頭のいい友人がいて、彼がパソコンに詳しかったから、わからないところをよく教えてもらったことは覚えている。

小さい頃、自転車の乗り方やビデオデッキの使い方は父から教わったけれど、10代の半ば頃に、吸入式の万年筆にインクを補充するやり方は、自分でいじっているうちにできるようになった。

カレーや味噌汁の作り方は一人暮らしを始めたときに自分で試行錯誤して覚えたが、学術論文の書き方は大学院で指導教官に教えてもらってやっと出来るようになった。

夕方、という時間帯がずっと続けばいいのに、と夕方になるといつも思う。

自分のなかにある知識や技術について、それぞれがいつ誰から教えてもらったものか、もう思い出せないものの方が多いけれども、でも、教えてもらったということは確かなのだ。純粋に自分の力だけで習得したものは、ほとんどない。

教えてもらわずにできるようになったつもりのことも、その基礎となる知識や技術は必ず誰かから教えてもらったものである。基礎を教えてもらったからこそ、後に別のことをやったときに、教えられなくても一人で出来たと思い込むことが出来ているだけなのだろう。

いまさらだけれども、この年齢になってあらためて、これまで私にいろいろなことを教えてくれた人に感謝しなくてはいけない、と思う。

確かに、人は、誰かから良いことを教えてもらえると同時に、悪いことや余計なことも教えられてしまうものである。そこが難しいところだ。でも、とにかく人は、教えたり、教えてもらったりしながら、生きている。人間と人間との関わりというのは、「教え合う」という点が肝だと言ってもいいかもしれない。

私たちは、家族であれ、友人であれ、学校の先生であれ、基本的には親切な人たちによる好意的な姿勢によって、何かを教えてもらってきた。

しかし、ある程度人生経験をつめば実感するように、私たちはちょっと嫌な人との不快で面倒な関わりを通して、結果的に人生におけるとても大切なことを教えてもらうということも少なくない。

そんなことも考えると、人生において出会うすべての人に「感謝」の気持ちを忘れてはいけない、といった宗教的道徳も、決して単なる綺麗事ではないという気もしてくる。

どんな事からも、どんな人からも、意地でも何かを学ぼう、学び取ろう、という姿勢を保つことができれば、つらいことや不愉快なことがあっても少しは我慢できそうだ。

今日、大学から帰るとき、自分で蝶々結びをした靴で歩きながら、こんなことをぼんやり考えた。

(終)



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