ふと何かを見て、「かわいいな」とか「かっこいいな」などと感じたりする。例えば、犬とか、猫とか、飛行機などについてである。
それらの「かわいい」とか「かっこいい」という判断は、自分のなかでは確実なものであり、揺らぐことはまずない。
しかし、なぜそれを「かわいい」「かっこいい」と感じるのか、どのようにそれを判断しているのかを、合理的に説明することはできない。このことは、なんだかちょっと不思議な気がする。
私は犬とか猫を見るのが好きだが、好きなタイプの犬とか、好きなタイプの猫というのがあって、その範囲から少し外れる犬や猫も確かにある。
自分がかわいいと思う犬や猫と、あまりそう思わない犬や猫との差は、私のなかでは歴然としているのだけれども、しかしどこがどう違うのかについては、うまく説明できないのだ。
子供の頃から私は飛行機も好きなのだが、「かっこいい」と思うタイプの飛行機と、その範囲から少し外れてあまり興味のないタイプの飛行機もある。
それもまた、自分がかっこいいと思う飛行機とそうではない飛行機との違いは、私のなかではかなりはっきりしているにもかかわらず、では両者のどこがどう違うのかについては、うまく説明できないのである。
高度な学問や特殊な技能でないかぎり、一般に人は、他人にうまく説明することができないものは、実は自分自身もよくわかっていないことが多い。
では、「かわいい」や「かっこいい」の理由や内実をきちんと説明することができないということは、その「かわいい」や「かっこいい」は私自身にとっても曖昧で不確実なものなのなのだろうか。
いや、決してそうとは思えない。それらは、明らかに「かわいい」のであり、確かに「かっこいい」のである。
言葉では説明することができないもの、あるいは言葉で表現することが著しく困難だというものは、この世に少なくない。
例えば、甘いとかしょっぱいといった「味」、あるいは「コク」や「香り」など、広い意味での味覚は、それをそのまま言葉で伝えることはできない。
他にも、ピアノのド・レ・ミとバイオリンのド・レ・ミとの違いなど、いわゆる「音色」もそれをそのまま言葉にして表現したり説明したりすることはできない。楽曲のメロディそれ自体についても同様だ。
だったら、私が感じる「かわいい」「かっこいい」の理由や根拠も、うまく人に説明したり伝えることができなくても、別にいいのだろうか。
そのような気もするし、そうではないような気もする。まだよくわからない。よくわからないから、よくわからない、ということだけ自覚しておくことにしよう。
今週は、授業や研究以外でバタバタとすることが多くて、とても疲れてしまった。
今朝は目覚まし時計の音で、目が覚めた。
何か夢をみていた途中のようなタイミングで時計の音が鳴って、私はまだまだ眠かったけれども、二度寝せずになんとか起き上がることができた。
耳が聞こえて、目覚まし時計で目を覚ませる、ということ。それはそれで、とても有難いこと、幸せなことのはずである。
(終)