風呂でとりとめのないことを考えて過ごした

今日は風呂のなかで、ぼんやりと、とりとめのないことを考えて過ごした。

私はよく、風呂に文庫本を一冊持って入る。今日は、ある日本人作家のエッセイを手にして湯船につかった。見開き2頁で1つのエッセイが完結する構成になっており、難しすぎず、簡単すぎず、風呂で読むのにちょうどいい本である。

だが今日は、なぜか本を読む集中力が続かなかった。

お湯の中に体を浸し、いつものように本を濡らさないように気をつけながら、それを開いて読み始めた。開いた頁のエッセイは、自動車の運転免許に関するものだった。

半頁ほど読み進めたちょうどその時、窓の外から、バイクのエンジン音が聞こえた。暴走族のようなやかましい音ではなく、常識の範囲内というか、特にうるさいとは思わないくらいのバイクの音だった。

私はそれを聞いて、ふと本から目を上げて、「あぁ、バイクか」とぼんやりと思った。

どんな人が乗っていたのだろう。どんな形のバイクだったのだろう。私はふと、そんなことを考え始めてしまった。

その人はバイクに乗って、こんな時間にどこに行くのだろう。仕事の帰りなのだろうか、それとも趣味で走っているだけなのだろうか……。自分にとってはどうでもいいことなのに、なぜかそんなことを、しばらくぼんやりと考えてしまったのである。

四角い食べ物よりも丸い食べ物の方が温かい可能性が高い、と人から言われる変な夢を見た。

別にバイクに何か思い入れがあるわけではない。1年くらい前にバイクに乗った夢を見たことはあった気がするけれど、特にその乗り物に興味があるわけではない。

たぶん、今日はけっこう疲れていたので、風呂のなかで活字を追うよりも、聞こえてくる外の音をぼんやりと聞いて、あれこれと空想をめぐらしている方が楽だったのかもしれない。

しばらくしてから、私は、我に返ったというほどでもないけれども、あらためて本を読もうと思って手元のそれに目を向けた。もう、窓の外からは何の音もしない。

頁をめくって読み始めた次の短いエッセイでは、作者は自分の小学校時代のことについて触れていた。そこを読んでいたとき、私はその文章の先を読み進めることよりも、自分の小学校時代のことを思い出して、今度はそちらに気が向いてしまった。

頭が良かったけれど水泳が苦手だった○○君は、今どんな仕事をしているだろうか。私と仲良くしてくれた△△君は元気にしているだろうか。そんなことを、とりとめもなく想起した。

いまどきはパソコンやスマホで名前を検索してしまえば、今何をやっているかわかってしまったりもする。けれども、そこまでしようとも思わない。ただ、懐かしくなり、明るい思い出と暗い記憶と、漠然とした申し訳無さのような奇妙な感情とともに、何十年も昔の小学校時代のことを思い出し、しばらくのあいだ、本を手に持っていることも忘れてしまった。

しばらくしてから、私はまた、我に返ったというほどでもないけれども、あらためて本を読み進めようと思った。

まあまあの都会で、静かに静かに暮らしたい。

頁をめくって次のエッセイを読み始めたら、その作家は宇宙のこと、特に重力や加速度について書いていた。それを読んでいたら、また私の気は散って、本から目を上げ、宇宙空間の無重力とはどんな感じなのだろう、などと考え始めてしまった。

いま自分は風呂のなかの湯につかっているから、体が軽くなって、全身の力を抜くことができている。では、暖房を強めに効かせた無重力空間に裸でいたら、それは風呂よりも快適なのだろうか、などと、どうでもいいことを考えてしまった。

そしてまた、しばらくしてから、私は、我に返ったというほどでもないけれども、あらためて本を読み進めようと思って目を活字に向けた。

このように、今日は風呂のなかで本を読み始めては、すぐに気が散ってどうでもいいことを考えてしまい、また本に戻っては、昔のことを思い出したりして、また本に戻っては、再び別のどうでもいいことを考えたり、という繰り返しで、結局4頁くらいしか読み進められなかった。

今日は朝から日が暮れるまで、合計で270分間も人前で話をする仕事をして、ちょっと疲れてしまった。だから、活字を追うのが面倒になってしまったのかもしれない。

けれども、不思議なもので、活字を追うことが面倒になるくらい疲れていても、このように適当な文章をダラダラと書くことはわりと平気で出来てしまう。

本を読んでいるときよりも、文章を書いているときの方が、気が散らない性格のようである。

(終)

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