こまごまとした「賭け」をしながら生きている

昨夜、夕食の後、ぼんやりとテレビを見ていた。どうやら、あるスポーツの試合があったようで、試合後の選手たちがインタビューを受けていた。

スポーツに人生を賭けている人たちをみると、素朴にすごいなと思う。というのは、スポーツ選手たちの成績や人生は、もちろん本人の努力によるところが大きいのだろうけれど、「運」の要素によっても大きく左右されるように見えるからだ。

具体的には、遺伝的体質とか、試合当日の天候とか、対戦相手の調子とか、審判の能力などの要素が大きく影響する。さらには、社会情勢とか、スポンサー企業のあり方とか、報道のされ方とかも、選手の成績を、つまりその人の人生を、大きく左右するであろう。

確かに「運」というのは、わかっているようで、実はよくわからない概念だと思う。今、さしあたりここでは「その人の努力の範囲外の要素」というくらいの意味で使っている。

しかし、そうした意味での「運」は、何もスポーツ選手に限った話ではない。「運」が関係しない人生などありえないとも言える。

例えば、どの国に生まれたかとか、どの時代に生まれたかというのは、典型的な「運」だ。

男に生まれたか、女に生まれたかとか、生まれつき病気があるかどうか、どんな容姿で生まれたかとか、小学校や高校でどんな同級生と同じクラスになったかとか、それらも明らかに「努力の範囲外」の問題なので、つまり「運」である。

年をとって耳が遠くなったら、枯れ葉が地面を流れるこのカサカサという音も、聞こえなくなるのだろう。

ある古代ギリシアの哲学者が、私たちが心穏やかに生きていくために大事なのは、「努力の範囲内にあること」と、「努力の範囲外にあること」とを正しく見分けることである、という主旨のことを言っていた。

そうした、いわゆる学力などとは別のレベルでの「知恵」というものは、確かに大事なものだと思う。

スポーツ選手たちは、単にその競技が好きだというだけでなく、この競技ならば全国的ないし世界的にトップに行って十分稼げる、と見極めたからこそ、練習漬けの生活を送るのであろう。それはある種の「賭け」のように見える。

だが「運」と同様に、「賭け」もまた、スポーツ選手に限った話ではない。

芸術・芸能の世界も同じだし、起業家とか、会社員とか、教師とか、医師とか、酪農家とか、あらゆる人がそうである。人は、さまざまな職業を自分で選んで、人生の幸福をそれに「賭け」ているのだ。

そしてよく考えると、「賭け」は職業の選択だけにとどまらない。

日々、何を食べるか、どんな映画を観るか、休日に何をするか、私たちは常に選んで決めている。暇な時に、ふとスマホでどんなサイトを見るかといった些細な選択でもって、意外とその後の気分とか、ものの感じ方とかに影響が出たりもするだろう。

何を選ぶか、その時間に何をすることに決めるかで、人生は明らかに変わる。それぞれの選択をする際に、その結果について逐一合理的な予測をたてることは難しい。だから現実的には、「賭け」るしかない。

日常生活は、こまごまとした無意識の「賭け」で成り立っているのだ。

生まれ変わったら、数学者か、SF作家か、軍人か、コメディアンを目指したい。

今ふと思い出したのだが、私は大学院生の頃、大学の図書館でアルバイトをしていたことがある。

夜間の貸し出し業務をおこなう単純な仕事で、私はそのアルバイト仲間の一人だった韓国人留学生と親しくなった。その彼と一度だけ、一緒に宝くじを共同購入したことがある。

もちろん、宝くじというのは、おかしなほど当選確率が低い妙な仕組みのものであることは知っていた。これはそもそも「賭け」でさえない。お金が欲しいから買ったというよりも、仕事の合間に彼とよくおしゃべりをしていたので、ただ話の流れで遊びとして買ったのである。

結果は、当然ながら、高額当選はなかった。ただ、当選発表まで、彼と図書館のカウンターの席に座って、当選したら何を買おうか、などと小さな声でおしゃべりをしているのは楽しかった。

宝くじそれ自体は「賭け」ではないけれど、一緒に宝くじを買うことにしたのは、それをしたら楽しいのではないかという意味での「賭け」だったのだ。そして、その賭けは当たって、つまり楽しかったから、もう20年以上も前の話なのに、今でもこうして覚えているのだ。

それ以来、彼とは連絡が途絶えてしまっているが、元気で暮らしているだろうか。

彼のなかでも、日本の大学院で研究をする、というのは彼が自分の人生を切り開くための一つの「賭け」だったはずだ。彼の「賭け」が実を結び、今幸せな生活をしてくれていることを願う。

(終)


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