自分の顔を知らないとはどんな感じなのか

今朝、歯磨きをしながら、なんとなく目の前の鏡に自分の顔を近づけてみた。当然ながら、見慣れた自分の顔がよく見えた。

鏡に顔を近づけたまま歯ブラシをシャカシャカと動かしていたので、鏡に歯磨き粉の白い飛沫が飛び散ってしまった。私は口をゆすいだ後、手に水をつけて、鏡についたその歯磨き粉の飛沫を拭った。

鏡が濡れて、映っていた自分の顔がにじんだ。

それを見ながら、ふと、いったい人類はいつ頃から、当たり前のように自分で自分の顔を見られるようになったのだろうか、などと考えてしまった。朝から、わりとどうでもいいことを考えるタイプである。

現代では、自宅にも、職場にも、また駅にも、デパートにも、いたるところに鏡がある。私たちは、一日に何度も自分の顔を見る。しかし、当然ながら、大昔はそうではなかった。

人類史全体においては、「自分の顔を見ることができなかった期間」の方がはるかに長かったのだ。

現代人は、自分がどんな顔をしているかを意識しながら生きている。しかし、かつては、一度も自分の顔を見ることなく生きて、死んでいくのが当たり前だった。

人が毎日のように自分自身の鮮明な顔を眺められるようになったのは、つい最近になってからのことである。

ヨーロッパ某国の知らない人から突然濃密な内容のお手紙をいただき、ビビっている。

現代的な鏡の製造方法が確立されたのは19世紀半ばのようだ。確か、写真術が普及し始めたのも、だいたい同じ頃だったはずである。

もちろん、金属製の鏡はかなり古くからあった。それさえなかった時代でも、水に映すなどして、自分の顔を見ることが全く不可能だったわけではないだろう。だが、今の私たちが使っている鏡やカメラとは、その鮮明さや手軽さにおいて、比較にならないだろう。

鏡というのは「三種の神器」の一つでもあるように、昔から、何となくミステリアスというか、特殊なイメージを与えられやすい道具だった。

鏡に向かって「鏡よ鏡、この世で一番美しいのは誰だい」と話しかける女性が出てくる童話もある。その物語では、その問いかけに対してちゃんと鏡がしゃべって答えるのである

もう何年も前のことだけれど、学生たちの引率でインドに行った時、ジャイナ教の寺院をおとずれた。その寺院は、外側も内側も、あらゆる壁が細かなモザイクでびっしりと装飾されていて、圧巻だった。その色とりどりのモザイクのなかには、鏡の断片のようなものもあったことを覚えている。

私の今の自宅近くに、小さなショッピングモールがある。その建物の2階にある男子トイレには、手を洗う場所に2枚の鏡が向かい合わせに設置されている。そのため、手を洗うためにそこに行くと、鏡が鏡を映し合い、無限のトンネルのようなものが見えるようになっている。

もし、今、世界中から鏡やカメラが無くなって、他人の顔は肉眼で普通に見られるけれども、自分の顔だけはもう死ぬまで一度も見られない、となったら、私たちの意識や態度や気分はどう変わるだろうか。

私たちは、これまで以上に謙虚になるだろうか。それとも、これまで以上に傲慢になるだろうか。

あるいは、特に何も変わらないだろうか。

(終)

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