約2年半ぶりに、新しい靴を買った。2年半前に買ったものと、形も色も全く同じ靴である。
しばらく前までは、底が厚いがっしりとした革製の靴を愛用していた。週に6日くらいそれを履き続けていたので、数年ですっかり底が擦り減り、全体的にみすぼらしくなってしまった。
そこで、2年半ほど前、いよいよ買い替えようと思って靴屋に行ったのである。
店内でぼんやりと靴を見ていたら、ウォーキングシューズと書かれている棚があった。そこに並んでいたのは、スニーカーのような素材の黒や焦茶の靴だった。
そのなかの一つをなんとなく試着してみたら、とても軽いことに驚いた。今まで履いていた靴の三分の一くらいの重さである。私は迷わずにそれを買って帰ったのだった。
さっそく翌日からそれを履いて外出してみると、文字通り足取りが軽くなる感じで、非常に快適だった。この軽さだったら、このまま月までだって歩いていけるのではないかと思ったほどだった。
以後、私はほぼ毎日その靴を履いて大学に行っていたし、買い物などに出かけるときもそれを履いていた。メガネと同じように、ほとんど体の一部となっていた。
「酷使」という言葉と「愛用」という言葉は、そこから受けるイメージはけっこう違うけれど、行為の内実はほとんど同じであろう。私はその靴を愛用し、あるいは酷使した。
やがて、いつのまにか、靴の内側の黒い生地は擦り切れて、黄色いスポンジのようなものが露出するようになってしまっていた。
私自身は気にならないのだけれど、何かの際に人前で靴を脱がなくてはならなくなったとき、これを見た人はぎょっとするかもしれない。裏面も、まるでヤスリをかけたようにスベスベになってしまっている。
今年いっぱいはギリギリ履けるんじゃないかなという気もした。だが、私は買い物全般を面倒くさがってしまうタイプなので、思いついたときに買ってしまわないといつまでも買い換えないだろう。
そう思って、先日、別の用事で出かけたときに、以前それを買ったのと同じ靴屋があったのでそこに入ったのである。
どの靴にしようかなと考え、いちおう10秒ほどキョロキョロと店内を見まわしたが、結局そこで私が買うことにしたのは、これまで履いていたのと全く同じ靴だった。形も色も、全く同じそれがまだあったのである。
店員に言って自分に合うサイズのものを持ってきてもらい、いちおう試着してみた。試着しながら「実はいま履いているこれ、同じやつなんですよ」と言ったら、店員の青年は「あ、ホントだ。全く同じやつですね」と言って笑った。
その新しい靴を、昨日から履き始めた。
昨日の朝、それを履いて外に出たら、なぜか少しだけ背が高くなったような気がした。これまでの靴は底が擦り減ったり、中のクッションがつぶれたりして、5ミリか1センチくらい薄くなっていたのかもしれない。
私はその新しい同じ靴を履いて、前の日よりも5ミリか1センチくらい背が伸びたような気分で歩きながら、いつものように大学に行って授業をして、そして帰ってきた。
前の靴を買った時は、ちょうどコロナウイルスの感染拡大が本格化し始めて、大騒ぎになっていた頃だった。この新しい靴も今日から2年半くらいは履けるだろうけれど、その頃、日本や世界はどうなっているだろうか。
新しい靴が入っていた箱は、もう捨ててしまったが、古い靴はまだ捨てていない。
近所のスーパーに行くときなどは古い方を履こうかな、などと考えて、靴棚のすみに置いたままにしてある。いつになったら捨てる決心がつくか、まだわからない。
(終)