「ふ」という字がとても難しかったという記憶

勤務先の大学と最寄り駅とのあいだには、図書館やコンサートホールなどが入っているガラス張りの文化施設がある。

毎朝、その建物の脇を通り抜けるようなルートを歩いて大学に向かい、夕方は同じようにそこを逆に歩いて駅に向かう。もう何千回もその前を歩いているはずだが、中に入ったことは一度もない。

年に何度か、その建物の端の方で、どこかの小学校なのか書道教室なのか知らないが、子供たちの書いた書道作品がガラス越しに展示されることがある。ちょうど今も、子供たちが書いたと思われる作品が、数十枚展示されている。

私は毎回それを横目に見ながら歩くのを、けっこう楽しみにしていたりする。というのも、その書道作品で書かれている言葉が、いつも面白いからである。

例えば、「夕やけ」とか「さくら」とか、そういうのはわりと定番だ。「ともだち」とか「ひかり」などもある。そういう言葉を書道の練習のために書いて作品とするのは、いちおう理解できる。

だが、なかには「くつ」とか「かに」というのもあったりして、私は思わず歩きながら考えてしまう。なぜこの子供は「くつ」と書きたかったのだろうか。靴が好きなのか。なぜ、あえて「かに」という言葉を選んだのか、カニが好きなのだろうか。「えび」ではダメなのか。

よく、時間が「ある」とか「ない」とか言うが、そもそも時間は「存在」するものなのか。

しばらく前にここを通ったときには、「はら」と書いている作品もあった。だが、「はら」とはいったい何か。

どの「はら」なのだろう。「原」のことだろうか。それとも「腹」なのか。ひょっとして「ばら(薔薇)」と書いたつもりが、濁点を書き忘れてしまったのだろうか。

「はら」をめぐって、私のなかであれこれと想像が膨らんでしまう。

少し学年が上がると、「希望の光」とか「自然の恵み」とか、ちょっと複雑な文字が書かれていたりする。

今回は「認め合う心」と書かれた作品もあった。私はそれを見て、なるほどこの世の一部の人たちは「相手を認める」という行為は「心」ですることだと認識しているのか、と興味深く思った。

その他には、「有言実行」とか「初志貫徹」のような四字熟語シリーズもよく見かける。

こうした書道作品の言葉は、どうやって選ばれているのだろう。書道の先生が、「この言葉を書きなさい」と指導しているのだろうか。それとも生徒たちが自分たちで自由に決めているのだろうか。

自分で自由に選んでいいと言われたら「酒池肉林」とか「支離滅裂」とか、わざとそういう言葉を選んでふざける生徒も出てきそうだ。

私も小学生のときに学校で習字の時間があった。書道大会のようなものもあったが、そのとき作品に書く言葉をどのように選んでいたかについては、さっぱり覚えていない。

私の名前は上も下も比較的シンプルな漢字から成るが、クラスの中には名字も下の名前も非常に複雑な漢字の者がいた。筆でその名前を書くのは大変そうだな、と思いながら私は習字の時間に彼の様子を斜め後ろから眺めていた。それくらいしか、はっきりとした記憶がない。

買い物をしようと思って出かけたら、祝日のため目当ての店はお休みだった。

小学校の習字の時間のことはほとんど覚えていないが、その一方で、幼稚園のときにひらがなの書き方を習っていたときのことは、わりとよく覚えている。

紙を配られて、マス目のなかに「あいうえお」から「ん」までを書く練習をさせられたときのことである。幼稚園児の私は、黙々とその紙に向かって鉛筆を動かしていたのだが、ある2つの文字だけ、書くのが非常に難しいと感じ、悩んだのである。

その2つの文字とは「ふ」と「ゆ」だった。特に「ふ」である。

「こ」とか「た」とか「け」とか「も」などど比べて、「ふ」は形状が非常に複雑である。いや複雑というか、曖昧であって、いったいどのあたりに点をつけ、どのように線をカーブさせれば一つの文字として成り立つのかわかりにくく、とても捉えがたい文字であるように感じたのである。「ゆ」は「ふ」よりはましだったが、それもけっこう難しく感じたのだった。

「あ」の字も難しそうだが、これは私自身の名前にもある文字なので、慣れるのは早かった。「お」も「あ」と形が似ていたので、すぐに区別ができた。

だが、「ふ」と「ゆ」は、いつまでたっても書くのが難しかった。

当時の私は、本気で「自分は大きくなるまでにこの〈ふ〉をちゃんと書けるようになるだろうか」と心配になったほどである。そのことを、中年になった今でもけっこう鮮明に覚えているのだから、不思議なものである。

今日歩きながら眺めた小学生たちの作品のなかに、「ふ」を含む言葉はあっただろうか。「ふ」から始まる言葉といったら「ふしぎ」「ふごう」「ふじみ」、あるいは「ふあん」「ふしぜん」「ふかづめ」などかな、と今書きながら5秒くらいで考えてみた。

とにかく今朝は、いつものようにぼんやりと通勤途中に子供たちの書道作品を眺めていたら、そういえば自分は幼いころ「ふ」というひながなを書くことにずいぶん苦労していた、という小さな記憶がよみがえってきたという次第である。

すっかり秋になって、涼しくなった。枯れ葉が、風に吹かれて足元を流れていく。

そろそろ来年の手帳を買わなくてはいけないなと思い、先日、毎年使っているのと同じ1日1ページの手帳を買った。

(終)

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