人生の恥ずかしさと「吾輩」の最後の言葉

人生というのは、基本的に、恥ずかしいものである。

後から振り返れば、あの時も、この時も、恥ずかしいことばかりだった。それなのに、幸いにもそれぞれのその時は、そうと気付かずに過ごしていた。しばらくしてから、あれは実に恥ずかしいことだった、と気付くのだ。

人生のそのような仕組みは、なんというか、神様による武士の情けのようなものかもしれない。この年齢になって、そんなふうに思ったりするようになった。

人生は恥ずかしいものである、人生そのものが恥ずかしいのだ、と言うと、「いや、人生とは美しいものなのだ」とか、「人生は素晴らしいものなのだ」などと反論されるかもしれない。

だが、「恥ずかしい」というのは、それらの反論と矛盾するわけではないと思う。というのも、「恥ずかしい」ということを十分にわかっていて、十分に受け入れていなければ、「美しい」とか「素晴らしい」とは言えないからである。

「恥ずかしい」ということを正直に受け入れて、そのことを後悔して、その記憶に悶絶して、反省して、そうして一周回って戻ってきた結果、その「恥ずかしい」が「美しい」とか「素晴らしい」に反転していく、という話なのではないかと思うのである。

単なるポジティブな感想としての「美しい」や「素晴らしい」は、薄っぺらなものである。むしろ、いかんともしがたい後悔や、恥辱があってこそ、「美しい」は美しいのであり「素晴らしい」は素晴らしいのではないだろうか。

朝、珍しい内装の電車に乗ったが、午後には会議が二つもあった。

人生は、恥ずかしい。明らかに、恥ずかしいけれど、だからといって、命を簡単に放棄するわけにもいかない。どうにかして、この恥ずかしさを受け入れるか、あるいは、この恥ずかしさを飼いならすしかない。

宗教とか、文学とか、音楽とか、軍事とか、倫理や道徳とか、その他さまざまな文化が生み出されてきたのは、私たちの人生の根本的な恥ずかしさを、何とかして飼いならそうとするという人間的な努力の結果なのではないだろうか。

私はイソップ寓話が好きなのだが、それらもまた、人間が自らの恥ずかしさを直視することができないがゆえに生み出された文学類型なのではないかと思う。

人間自身の愚かな様子は、それをそのままストレートに説明されてしまうと、ちょっとなまなましくて、私たちは笑えなくなる。だから、羊とか、狼とか、ウサギとか、亀とか、あえて人間の言葉を話せない動物に人間の役を演じさせることで、ようやく私たちはそれを直視できるようになるのだ。

処世訓や人生訓をわざわざ擬人化して説明するというのは、必ずしも子供にもわかるようにするためだけの工夫ではない。大人たちを「恥ずかしさ」ゆえに傷つけないようにするための、2000年以上前に考えられた気遣いなのかもしれない。

線路が続いているのではなく、続いているから線路なのだ。

では、人間以外のもの、例えば、街にいるハトやカラスにも、それぞれの一生において、私が「恥ずかしい」と思っているものに相当するような後悔や悶絶はあるのだろうか。

犬にも犬なりの、猫にも猫なりの、それぞれの「恥ずかしさ」があるのだろうか。私たちには知り得ないけれども、しかし人間もしょせんは動物なのだから、私が人生を「恥ずかしい」と思うならば、そのこと自体は動物としてさほど奇特なものではないはずだと思う。

「素晴らしさ」や「美しさ」は「恥ずかしさ」が反転したものだから、他の動物もそれぞれが一生を大切にし、自分や子孫を慈しんでいるとするならば、彼らも「恥ずかしい」という感覚と全く無縁ではないような気がする。

最近、『吾輩は猫である』を読み返した。その冒頭、書き出しの一文は有名なので、誰もが知っているだろう。「吾輩は猫である。名前はまだない」だ。

では、この小説の最後の一文をそらんじて言える人はどれくらいいるだろうか。

物語の最後、猫の「吾輩」は、家の人の飲みかけのビールをなめて酔っ払う。そして、ふらふらと歩いていると、水の入った甕(かめ)のなかに落ちてしまうのだ。

「吾輩」は水のなかで必死に手足を動かしてもがくが、なかなか甕のふちに手が届かない。いくらもがいても、もがいても、甕からはい出すことができないのだ。そこで、とうとうもがくことをやめることにする。そして言う。「次第に楽になってくる。苦しいのだか有難いのだか見当がつかない」。

そしてまもなく「吾輩」は自らの死を覚悟する。だが、それは悲壮ではなく、実に淡々としているのだ。この物語を締めくくる最後の一文は、次の通りである。

「吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。有難い有難い」。

この猫の言葉は漱石の空想であるけれども、もし本当に、ある一匹の猫の死がこのようでありうるならば、猫たちも自分の一生の愛しき恥ずかしさを感じられるのではないかと思う。

恥ずかしいというのはちょっぴり嫌なことだけれど、しかし、恥じてこそ、有難いと感じることができる。

人生が大切なのは、それが根本的に恥ずかしいものだからである。恥ずかしいにもかかわらず生かされているから、有難いのであり、また、有難いから、恥ずかしいのである。

(終)

  • URLをコピーしました!
目次
閉じる