今朝、自宅を出て歩き始めたら、すぐ近くの白い壁に、5センチくらいの茶色い物体がくっついているのに気付いた。
一瞬、枯れ葉が壁にへばりついているのかな、と思った。だが、よく見るとそれは大きな茶色い蛾であった。顔を近づけてもそれは微動だにせず、壁にはりついたままでいる。
私がこれだけ近づいても逃げないのは、この蛾は自分でも自分は本当に枯れ葉であると心底思い込んでいるからではないか、と思うくらい、それは見事な擬態だった。
その蛾は白い壁にはりついていたからかえって目立ってすぐにわかったが、木の幹や地面にとまっていたら、まったく気づかなかっただろう。
そんな蛾の姿を見て、私は迷彩柄の服を着て街を歩いている人の姿を連想した。迷彩柄は、森の中などではそれを身に着けている人を目立たなくするけれども、街の中ではかえって目立たせるからである。擬態が真逆の効果を発揮するのだ。
カトリックの修道女の服装も、それと似ているような気がしないでもない。
修道女の服のデザインは、会派によってそれぞれ異なるけれども、一般には地味で質素であるためにあのような色と形のものになったはずだ。しかし、現代の街中では、彼女らの服装はむしろ個性が強い目立つものになっている。
昆虫の擬態も、人間の服装も、それ単体で意味を持つのではない。その姿で「どこにいるか」、つまり文字通りの「背景」が重要なのだろう。
人間が着ている服のデザインには、寒くないようにとか、怪我をしないようにとか、さまざまな実利的な機能がある。しかし、それと同じく、あるいはそれ以上に、文化的なものにも基づいている。
例えば、結婚式や葬式などで身につける服には一定のルールがある。平時の装いでも、最近は比較的自由になってきたとはいえ、やはり身につける服や靴やカバンのデザインには、男性用・女性用などの暗黙の境界線がある。
例えば、夏の暑い日に、中年男性がミニスカートを履いて歩いても、別に法的に処罰されたりはしないが、多くの人からは奇妙だと思われてしまうだろう。
少なくとも、今の総理大臣がそうした格好で国会に現れたりしたら非難されるだろうし、これから自分の家族の手術を任せる男性医師がそんな格好で眼の前に現れたら「こいつで大丈夫か」と不安になってしまうだろう。
それぞれの時代や文化に、服装には一定の枠があって、一般的に認知されている服装のルールや境界線を逸脱することには覚悟が求められるのだ。
ハロウィンやコスプレ・イベントのように、特定の日時や場所では非日常的な服装が許されたり、むしろそれが期待されることはある。だがそれは、通常の場所や時間では「常識」的な服装が求められていることをちゃんと自覚している、ということの裏返しでもあるだろう。
服には、「制服」という名のおそろいの服を身につけることで、一人ひとりの職業的な自覚を高めたり、連帯意識を強めたりするという効果もある。服装というのは思いのほか私たちの意識や心を左右するものなのかもしれない。
私たちは、街ですれ違う見知らぬ人たちについても、身につけている服のデザインとその着方などによって、その人の気質、性格、社会的な立場や、場合によっては道徳性などについても推測したり想像したりする。
自分が好みの服を身につけることで、結果的に自分の性格や好みが他者に対して表現される、ということもあるだろう。だが、その順序が逆になっていて、人から○○だと思われたい、という願望がまず先にあり、それに合わせて、そう思ってもらえるような服を身につける、という場合もあるだろう。
そいした意味では、ファッションというのは、一方ではその人の無意識の「表現」であるが、同時に、意識的な「願望」であるとも言えそうだ。
服を変えることで、人間はさまざまな「背景」に溶け込むことができる。同じ人物が、警察官の制服を着たらその職業文化に溶け込むことができるし、尖った鋲がついた黒いワイルドな革ジャンなどを身につければ、そうした人たちが集まっている空間に溶け込むことができる。
昆虫の擬態には、枯れ葉にそっくりな蛾のように、周囲の背景に溶け込むような擬態もあるけれども、別の生物に見せかけるようなタイプの擬態もある。そうしたものもあることを考えると、人間の服装やファッションというのも、多かれ少なかれ、「擬態」の要素をもっていると言えるかもしれない。
だが、よく考えると、「擬態」的であるのは服装だけではない。喋り方とか、考え方なども、私たちは無意識のうちにある程度は周囲に合わせて生きている。今はこういうことを言ってはいけないとか、こういうふうに振る舞うべきだとか、口から出る言葉も、立ち居振る舞いも、つまりは「擬態」かもしれない。
私たちは、あえて心にもないことを口にしたり、我慢して何かの行動をとったりするすることがある。そうしたことも、それによって他者から自分を防御したり、あるいは何かを得たりすることを目的とした「擬態」かもしれない。
「ファッション」や「マナー」と「擬態」の境界は、けっこう曖昧だ。宗教も、倫理も、法律も、擬態かもしれない。社会生活というのは、多かれ少なかれ、擬態を駆使して生きることであるように思われる。
今日、出かけるときに、うちのすぐ近くの白い壁にとまっていたあの枯れ葉のような蛾は、帰ってきたときにはもういなくなっていた。あの蛾は、どのくらいの時間、あそこに居続けたのだろう。
私が見かけた後、すぐに飛び立って裏の公園の方へ行ったかもしれない。あるいは、それから何十分も、あるいは何時間も、じっと壁にはりついていたままだったのかもしれない。だが、もうわからない。
その蛾は、私がその蛾についてあれこれ考えて、今こうしてそれについてここに何かを書いたりしているということを、知るよしもない。
だが私も、その見事な擬態の蛾がなぜ今日、あの白い壁に目立つようにとまっていたのか、知るよしもない。
(終)