蜘蛛についての疑問を、疑問のままにした

勤務先の大学と、最寄り駅とあいだの距離は、約1キロである。普通に歩くと、だいたい15分くらいだ。

珍しいことに、その約1キロの道のりには信号が一つもない。そのため、ぼんやりと考え事をしながら歩くのにはとても具合がいい。

今朝もいつものようにそこを歩いていたら、私の頭よりもちょっと高い場所に、青空を背景にして大くて見事な蜘蛛の巣があるのを見つけた。

その綺麗な巣の中央には蜘蛛が8本の手足を堂々と広げており、その大きな巣と蜘蛛のシルエットは、実に完璧な図形のようになっていた。

蜘蛛というのは虫のように見えるが、分類上は「昆虫」ではない、ということは子供の頃から知っていた。だが、それ以上のことは全く知らない。

蜘蛛は漫画の『スパイダーマン』とか、あるいは芥川龍之介の『蜘蛛の糸』とか、いろいろな創作物にも登場する。ホラー映画や、お化け屋敷などでも、不気味な雰囲気を出すための小道具として蜘蛛が用いられることは多い。

この生物は、何となくミステリアスなイメージで捉えられる傾向が強いようだ。

だが、今日見つけたその蜘蛛の巣と蜘蛛のシルエットは、これまでに見たどれよりも均整が取れていて、幾何学的であると同時に生々しさもあるような、近寄りがたいけれども目が離せないような、いかんともしがたい美しさをもっていた。

メガネの上にかけられるルーペを買ったら、本が読みやすくなって感動。

その蜘蛛の巣とその蜘蛛を見たとき、私の頭には、素朴な疑問が浮かんだ。その疑問とは、いったい蜘蛛はどこでどうやって伴侶をみつけて、交尾をし、子孫を残しているのだろうか、というものである。

今朝私が見かけたその蜘蛛の巣のサイズは、私が普段使っているパソコンのモニターの1.5倍くらいで、けっこう大きなものであった。

その大きな網に他の昆虫などがひっかかったら、蜘蛛はすみやかにそれを捕食するのであろう。だが、獲物が引っかかるのをひたすら待つのが日課である限り、蜘蛛は一日中その場を離れられないはずだ。

だとすると、彼らはいったいいつ、どうやって異性と出会い、子孫を残しているのだろうか。そんな疑問を思いついてしまったのである。

人間だったら、昼間は仕事をして、夜や休日に異性とデートをしたりすることができる。野良猫であれば、あちこちを動き回って異性と出会い、気が合えば交尾をして赤ん坊を生むというのが想像できる。

カマキリのように、交尾が終わるとメスがオスを食べてしまうという驚くべき習性をもつものもあるようだが、彼らも自由に動き回れるので、異性との出会いはありそうだ。

しかし、蜘蛛は自分だけで巣を張り、そこに一日中とどまって、餌となる虫が引っかかるのを待たねばならない。だとすると、そもそも異性との出会いの機会がないのではないか、と思ったわけである。

太陽の角度は、永遠にこれくらいでもいいのではなかろうか。

蜘蛛の生態に関する研究には、とっくに膨大な蓄積があるだろう。だから、このあたりの事情がどうなっているのかは、きっとネットで調べればすぐにわかるに違いない。

しかし、その蜘蛛の巣はあまりにも綺麗に見えたので、そして今朝は天気が素晴らしくて空気も澄んでおり、気持ちが良かったので、私はふと、これについてはあえて調べないでおき、疑問のままにしておいてみよう、という気分になったのだった。

自分でもよくわからない理屈なのだけれど、あえてこの疑問を「わからない」ままにすれば、今朝見つけたその見事な蜘蛛の巣と蜘蛛のシルエットの美しさを、いつまでもひっそりと記憶にとどめられるような気がしたのである。

例えば、明日またここを歩いて、まだ同じ蜘蛛の巣があれば、私はそれを見上げて、今日と同じように「この蜘蛛はどうやって伴侶とめぐり会うのだろうか」と疑問に思うだろう。

明後日には、いったんこのことを忘れて、この蜘蛛の巣の下を別のことを考えながらスタスタと歩いて通り過ぎてしまうかもしれない。

だが、また別の日に、どこかで別の蜘蛛とその巣を見かけたときに、「そういえば、前に、蜘蛛はいったいどうやって異性の蜘蛛と出会っているのだろうか、って疑問に思ったんだった」と思い出すだろう。

そしてその疑問を思い出せば、今朝の青空のなかに見つけたあの実に見事な蜘蛛の巣と蜘蛛のシルエットの美しさも、再び頭のなかに蘇るに違いない。

この疑問をあえて解決させないでおけば、私は今朝のあの大きな蜘蛛の巣の美しさをずっと覚えていられる。なぜか、ぼんやりと、そんなふうに思ったのである。

(終)

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