猫が何を考えているのかわからないのが人生

私の自宅の近くには、野良猫が何匹もいる。

昨夜、仕事を終えて自宅に帰る途中も、そのうちの一匹を見かけた。街灯から少し離れたところに、一匹で地面に座っていたのである。

私自身は猫や犬は好きなので、帰宅途中などにふと彼らを見かけると嬉しく感じる。可愛い動物は、見ているだけで楽しい気分になるからだ。しかし、彼らが私の姿をみかけてどう思っているのかは、当然ながら、まったくわからない。

昨夜見かけたその野良猫も、何を考えているのかはわからなかった。

その猫は、私の姿に気がつくと、じっとこちらを見つめた。私は猫を驚かせないように、その猫を見つつも、それまでと同じペースで黙々と歩き続けた。

私はそのとき、何か声を出したわけでもないし、急にその猫に近寄ったわけでもなかった。しかし、私を見つめていたその猫は、何を思ったのか、急に大きな決心をしたかのようにすくっと立ち上がり、向こう側に走っていってしまったのである。

「どうしてだろう」と私は思った。その猫が何を考えていたのか、まったくわからない。もう少し猫を近くで見ていたかったけれど、残念だ。どうして逃げいってしまったのか。わからない。

まったくわからないまま、私は残りの人生を生きていく。

選ばれてあることの恍惚と不安がなかったら、人間失格。

だが、思えば、世の中は、何を考えているのかわからない人だらけである。

例えば、今朝、私が電車に乗って座席に座ったとき、向かい側にはスーツ姿の中年男性が座っていて、ノートパソコンを広げて画面をみながら何かの作業をしていた。彼は私が降りる駅の一つ手前の駅で降りていった。

同じ日に、同じ電車で、同じ車両に乗ったにもかかわらず、私は彼が何を考えていたのか、まったくわからなかった。当然といえば当然だが、わからなかったことは確かである。

また、今日の夕方、大学から最寄り駅までの約1キロを歩いているとき、途中で小柄な若い女性とすれ違った。彼女はずいぶん大きな黒くて四角いショルダーバッグを肩にかけて、重たそうに歩いていたので、私はつい「何が入っているのだろう」などと考えてしまった。

だが、彼女が歩きながら何を考えていたのかも、私には当然、まったくわからなかった。

昨晩の猫は何を考えていたのかわらかなかったが、それと同じように、今日の朝や夕方にすれ違った幾人もの人たちも、何を考えているのかはわからなかった。

それが普通なのだ。永遠に、わからないまま、私は残りの人生を生きていく。

私たちは、何かについて、知りたいと思ったけれどわからなかったときに、そこで初めて「わからない」「わからなかった」と気付く。だが、そもそも知りたいとも思わないときは、「わからない」「わからなかった」とさえ思わずにいるだけなのだ。

明日も、明後日も、何を考えているかわらかない猫や人に出会う。私自身も、他の人や他の猫たちから見れば、何を考えているのかわからないであろう。

(終)

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