同床異夢が私たちの普通なのかもしれない

「古池や蛙飛びこむ水の音」は有名だ。「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」も有名だ。

これらは名作・傑作ということになっている。私は、これらを初めて知った小学生の頃はあまりピンとこなかったように記憶しているが、今では、確かにこれらの作品はうまく風情のある情景を描いている……ように感じる。

だが、あらためてよく考えてみると、今の私がこれらの作品が「良い」と思っているのと、別の人たちが「良い」と思っているその理由というか、作品の受け止め方は、果たして本当に同じなのだろうか、と疑問に思ったりもするのである。

例えば、まずこの「古池や……」の方だが、これはそもそも何時頃の風景なのだろうか。夕方になって空がオレンジ色になっている頃に、蛙が古池に飛び込んでいる様子を表現しているのだろうか。それとも、昼過ぎの空が真っ青の明るい時間帯なのだろうか。あるいは、朝食を食べたばかりの早朝の時間帯で、空の色は薄いグレーなのだろうか。

この俳句が「良い」と思っている人々のあいだでも、頭に思い描いているイメージは、午後の明るい時間であったり、夕焼けの時間であったり、あるいはこれから一日が始まるという早朝だったりと、全然異なる絵を頭に思い浮かべている可能性が高い。

また、古池に飛び込んでいるその蛙は、一匹だけなのだろうか。多くの蛙が次々と飛び込んているようには思えないが、3匹見えるうちの1匹が飛び込んでいるのだろうか、それとも、2匹見えるうちの1匹が飛び込んでいるのだろうか。それとも、そもそも蛙の姿は全く見えていなくて、音だけがしたということなだろうか。

哲学や思想の向こう側には意外と何もなかったりする、という誠実、夢、希望、愛。

そもそも、その「古池」とはどんな池なのだろう。まわりにコケでも生えているのだろうか。近くに大きな岩でも並んでいるのだろうか。それとも少し離れたところに松の木でもあるのだろうか。

きっと、どれが正解と言えるわけではないであろう。

多くの人が、それぞれ全く違う風景をイメージしているのに、それにもかかわらず、皆がこの俳句を「良い」と評価しているというのも、思えば不思議なものである。

「柿くえば……」の方も同様である。この作品もまた、いったいどの時間帯を念頭に作られたのだろうか。午前なのか、昼頃なのか、それとも夕方なのか。

柿を食べているその人の近くには、人々が大勢いるのだろうか。少し離れたところに、若い娘が静かに歩いているのだろうか、それとも小さな子供たちが笑いながら走り回ったりしているのだろうか。それとも、見渡す限り誰もおらず、一人ぼっちでいる様子なのだろうか。

また、その本人は、椅子などに腰掛けて柿を食べているのだろうか、それとも地面に座ってあぐらをかいて柿をかじっているのだろうか。

これらの俳句が「良い」とか「傑作だ」「名作だ」と評価している人たちのあいだでも、実は一人ひとりが頭の中で具体的に思い描いている風景は、実は全く違うものであると思われる。

「よい作品だ」という総合的な評価は共通しているけれども、実は全く違うイメージでその作品を捉えているというのは、なかなか不思議で面白い現象であるように思われる。

私たちの感動は、まさに「同床異夢」なのかもしれない。

大きな自販機を地下鉄の駅のホームに運び込んでいるその現場を見たことも、まだない。

思えば、宗教も似ているのではないだろうか。

例えば「同じキリスト教」で、「同じ神」を信じていると思っていても、実際に一人ひとりがイメージしている「神さま」はけっこう違っている可能性がむしろ高い。

例えば、善にして全能なる神さまがいるのに、なぜこの世には戦争とか犯罪とか災害とかさまざまな「悪」が存在するのか、という素朴な問いがある。神義論というもので、つまりは神の正しさを弁証しようとする神学的議論である。

神義論にはいろいろなパターンがある。例えば「神さまがなさることは一見理不尽にも感じるが、しばらくするとその真意がわかるのです」というような説明の仕方がある。また、「神さまは、私たちをより成長させるために、時にはあえて苦難をお与えになるのです」といった説明の仕方もある。

他にも、「悪はそもそも神に由来するのではなく、人間が苦しみのなかにいるときは神も共に苦しんでおられるのです」といった説明もある。さらには「全能であるのに悪を放置している神に対しては、正直に抗議すべきなのです」という信仰もある。

どれが妥当か、どの議論が正しいか、という正解はない。

だが、悪の存在をどう解釈するかという問題は、つまり自分はどういう神を信じているのかという問題に他ならない。したがって、この問題について異なる考えを持っている信徒たちは、もう「同じ神」を信じているとは言えないのではないか、とも思ってしまうのである。

これもまた、同床異夢である可能性の方がむしろ高そうである。

それが悪いと言っているのではない。

芸術に関しても、宗教に関しても、私たち人間の精神生活において、「同床異夢」の方が普通なのかもしれない。純粋に「同床同夢」で何かについて、感動したり、信仰したり、愛したり、憎んだりすることは、ありうるのだろうか。

(終)

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