戦争についてのどうしようもない感覚

きっと、また戦争は繰り返されるだろう、と夏になるたびに思う。

日本の8月15日は、まるで儀式のように同じセンチメンタリズムが繰り返されてばかりで、誰も本当の意味で戦争について考えないようになってしまっているからである。

本当に「戦争を繰り返してはいけない」と考えているのなら、どうしてテレビでは毎年この時期に80年前の戦争の白黒映像を流しているのだろう。それは「歴史」としては重要な資料だけれども、現在と将来の平和構築や戦争抑止のためにはあくまでも二次的なものに過ぎない。

今これから「戦争を繰り返さない」ために本当に重要なのは、「今現在」、世界の状況はどうなっていて、どこに軍事衝突の危険があるのかとか、日本の軍事はどうなっているのかとか、アメリカとの軍事同盟はどういう形になっていて、中国やロシアや北朝鮮の軍事状況はどのようになっているのかとか、そういった事柄であろう。

さらに、そもそも「戦争・軍事」というのはどういうものなのかとか、その組織構成や基本的な戦略思想とか、現代の軍事は80年前や50年前や20年前までとくらべてどう変化しているのかとか、そういったことを報道したり解説したりすることこそが、大切なはずである。

今から80年後、この駅のかけらはどこにいっているのだろうか。

ところが、日本の夏は、8月15日になると、アジア太平洋戦争のことばかり想起させて、ただひたすら戦争による「悲しさ」を感じさせるようなドキュメンタリばかりが、少なくともテレビでは、繰り返されている。ほとんど儀式と化している。

それは単なるセンチメンタリズムであって、戦争の「反省」にも「理解」にもつながっていない。むしろ屈折したエンターテイメントだと言ってもいいかもしれない。

たぶん、多くの日本人は、本当は「戦争を繰り返してはいけない」とは考えていないのだ。

8月15日には、約80年前の戦争を「思い出し」て、「悲しみを新たに」すれば、戦争について反省したことになる、戦争について考えたことになる、というのが日本社会なのである。

これを思考の停止と言わずとして何と言おうか。

日本人は、80年前は情緒で戦争をしたが、今は情緒で平和を叫んでいる。物事に対する根本的な姿勢は、80年前も今現在も、見事なまでに何も変わっていない。

確かに、戦争について考えるということは容易ではない、というのはわかる。というのも、私たちの戦争に対する感覚というのはなかなか正しいバランスを保てないものだからである。

例えば、しばらく前にロシアがウクライナに侵攻して戦争が始まった。その出来事と現地の状況に世界は驚愕して、日本もウクライナからの難民を受け入れたり、反戦運動がなされたりと、大騒ぎになった。

しかし、戦争や内戦など暴力による犠牲者は、70年代も、80年代も、90年代も、21世紀に入ってから今までも、ずっと世界各地であった。難民と呼ばれる人たちも、ずっと以前から世界中にいた。しかし、日本の善良な人たちは、なぜか今回のウクライナの難民にばかり同情的で、積極的に彼らを受け入れようとしている。

もちろん、それが人道的に「悪い」と言っているのではない。人間というのはさまざまな偏見や、思い込みや、偏った感情を抱くものである。

ただ、あまりに一貫性のない「同情」には、私はかえって不安や恐怖を覚える。

また、ウクライナでの悲惨な戦闘の様子が毎日報道されて、「戦争はよくない」「一日も早く戦闘の集結を」などと言いながら、同時に世界では、戦闘機パイロットたちを主人公にした映画が大ヒットしている、というのも興味深い現象である。

これも、そのことが「悪い」と言っているのではない。私もその映画を観て「面白い」と思ってしまった。人間というのは、戦争には反対しつつも、ドラマのなかで繰り広げられる戦闘機パイロットたちの活躍にワクワクして、「かっこいい」と思って、手に汗を握り、面白がったり、感動したりするものなのである。

白猫がこちらを振り向いたが、なぜ振り向いたのかはわからない。

このように、冷静に「戦争について考える」「戦争に反対する」というのは難しいことなのだ。

戦争や軍事について、私たちは、けっこう無責任に「同情」したり、「悲しみ」を覚えたり、また逆に「面白さ」を感じたりする。

だからこそ、せめて8月15日は、そうした「悲しみ」とか「平和への思い」とか、そういった情緒的な側面を意識的にオフにすべきなのだ。冷徹に、あくまでも具体的な事実として、戦争・軍事について考えねばならないのである。

なぜなら、平和というのは、情緒の問題ではなく、徹底的に具体的な現実の問題だからである。80年前の「悲しみ」を思い出せばおのずと行動が倫理的になって戦争が抑止されるというのは、個人的行動と社会的問題を混同した思い込みに過ぎない。

かつての日本人は、必勝への「信念」があれば戦争に勝てると信じていたが、今の日本人は平和への「信念」があれば大丈夫だと信じている。この滑稽なまでの「変わらなさ」は、もはや日本の伝統宗教である。

(終)


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