「好きな色は何ですか」という問いの正体

夕食を食べて、シャワーに入り、簡単な仕事を一つだけ片付けた。それからは、いつものように居間でぼんやりとテレビを眺めていた。

テレビのなかでは、女性のような格好をした大柄な男性が、ピンクの服を着た女性タレントと雑談をしていた。

彼らは、何か重要な社会問題などについて意見をかわしていたわけではなく、かといって何か私の知らない世界の話をしていたわけでもなかった。文字通りの雑談だった。

退屈といえば退屈なものだったが、その女性のような格好をした大柄なタレントのしゃべりかたがなんとなく面白かったので、ぼんやりと観ていたのである。

彼らは話のなかで、「好きな色は何?」という質問に対してお互いに答え合ったりしていた。そのとき私は、この質問って面白いなと思った。面白い、というのは、その質問内容に知的興味をおぼえるという意味ではなくて、どうでもよさを極めた問いであるという意味で「面白い」のである。

もちろん私は子供の頃から、自己紹介とか、あるいは他愛のない会話のネタの典型として、この「好きな色は何ですか」というのがあることは知っている。

これまでけっこう真面目に、自分は何色が好きだろうか、と考えたりしてきたのだ。

私の目には、チョウが花にとまっているように見えた。

私の世代だと、漠然と、赤という色は女子の好きな色で、青などが男子としては格好がいい色、というようなイメージがあった。

その一方で、戦隊ヒーローものでは、主人公的なキャラクターの色が赤だったりしたし、ロボットアニメでもメジャーな登場人物の乗るロボットの色が赤を基調としたものだったりもした。

だが、私自身は赤いカバンや赤い服はほとんど身につけたことがなかったし、それは自分の生活にはあまり馴染みがない色である気がした。

かといって、青というのはなんだかキザな気もするし、緑という色にも特に関心は持てない。黒とか、白とか、グレーなどいうのも、なんかピンとこなかった。

服だったら何色がいいですかとか、車だったら何色がいいですかとか、腕時計だったら何色のものがいいですかとか、ペンケースだったら何色のものがいいですかとか、何についての色を問うているのかが明確でなければ、答えようがない問いなのである。

言葉だけで「青が好き」とか「赤が好き」と言っても、実際には青の中にもいろいろなブルーがあるし、赤といってもいろいろなレッドがある。こういった感じのブルーだったら、むしろあっちのようなタイプのレッドの方がいい、という場合だってあるだろう。

全く同じライトグリーンでも、それがメロンかなにかだったら美味しそうで素敵だが、卵を割って黄身がそんな色をしていたら気味が悪いだろう。

「好きな色」というものを、具体的な何かの色としてではなく、抽象的な「色」そのものとして論じるのは、けっこう難しい、と私は思ってきたのである。

いったい、私は何色が好きなのだろうか。

だが、40歳を過ぎてから、ようやくわかったのだ。好きな色がわかったのではない。そうではなく、冷静に考えればこの「好きな色は何ですか」という質問は、そもそもナンセンスだったのだ、ということに気付いたのだ。

これは、本当に相手が何色が好きかを知りたくて問うものなのではなく、曖昧で、無茶で、答えにくい問いであることを重々承知のうえで交わすもので、いわば、目的のない儀礼のような問いだったのだ。

そんなことは、普通はきっと中高生くらいで気付くものなのだと思う。しかし、私は妙なところで勘が悪いというか、鈍いというか、抜けているところがあって、この「何色が好きですか」という問いを、バカのように本当にそのまま考え続けてしまっていたのである。

私は少し、いわゆる「コミュ障」なところがあるのだが、それは例えばこうした問いの意味や意図がなかなかわからなかったりするところに、実に端的にあらわれている。

白い円柱状のものが、とにかくたくさん並んでいる。

この質問をめぐって、ある人は「虹色」と答えたり、「透明」と答えたり、何かしらひねった答え方をしようとしたりする。

もう少し頭の回転のいい人だったら、色それ自体から少し話題をずらして、「ワインだったら赤がいいよね」とか、「ブルーなんとか、っていうカクテルが好きだよ」などと答える人もいるかもしれない。

あるいは「茶色い料理って、見た目はパッとしないけど、美味しいのが多い」などと語り始めてもいいし、「真っ白なクジャクを見たことがあるんだけど、あれは神々しいね」なんて勝手に自分の話にしてしまってもいいだろうか。

何かの商品の色で、ただの黒色なのだけれど「ピアノブラック」と称していたり、ただの薄い桃色なのだけれど「サクラピンク」などと称していたりするのを見たことがある。なるほど、言葉一つで色のイメージを操作することができるのだな、と思った。

そういえば、私が子供の頃は、クレヨンに「肌色」という色があったが、今は「うすだいだいいろ」になっているらしい。人種問題からの配慮らしいが、私は今でもつい「肌色」と言ってしまいそうになる。

色には、名前をつけることはできる。しかし、色そのものを言葉で説明することは非常に難しい。それは、味や音それ自体を言葉では説明するのが難しいのと似ている。

とにかく、もう私は、純粋に抽象的な「色」それ自体について、自分はどれが好みかという、答えの出しようのない問いについて考え込まなくて済むようになった。肩の荷が下りたような気分である、と言ったら大げさであろうか。

この問いに、特に意味はない。「特に意味はない」という気付きの安堵は、あえて言えば、透明色であろうか。

(終)

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