その相手以外は愛さないことを意味する可能性

昨夜、駅のホームの隅で、高校生くらいのカップルが抱き合っているのを見た。仲が良いのは結構なことで、平和な光景だった。

カップルだと言ったけれども、実はそれは私の思い込みで、ひょっとしたら、恋愛的衝動から抱擁していたというのは私の誤解だったかもしれない。

可能性としては、例えば、実は彼らは今日の試合で優勝した社交ダンスやフィギュアスケートのペアで、喜びを噛みしめて抱き合っていたのかもしれない。あるいは、彼らは親を失ったばかりの兄妹で、悲しんで抱き合っていたのかもしれない。

人と人との関係は、他者にはまったくわからないものだ。しかし、抱き合っていた以上、両者の間には何らかの愛情があったことは確かであろう。

私はあまり彼らのことをジロジロ見ないようにして、電車がやって来るとすぐに乗り込んで車内の隅の座席に腰かけた。彼らは車内には入って来ず、そのまま扉が閉まって発車したので、彼らはそのままホームの隅にいつづけたのだろう。

そんなことから、私は電車が動き出してからも、しばらくのあいだ、男女の愛とやらについてぼんやり考えていた。

「結婚」という行為や制度は、とりわけ自由恋愛による結婚が主流である現在は、よく考えると不思議なものだと思う。というのは、二人が愛し合って結婚するならば、そこには必然的に、「その相手以外は愛さない」という誓いが含意されるからである。

こういう曇り空の、なんとも言えない奇妙な懐かしさよ。

結婚する二人はそれぞれ相手だけを特別に愛すると宣言するわけだから、その誓いは逆に言えば、自分の妻や夫ではない他の人々のことは、さほど愛しません、という告白・宣言だとも言えるからである。論理的には、そういうことにならざるをえない。

「愛」というのが、人間的行為における最重要のものであるとするならば、それは自分の妻や夫や子に対してだけでなく、この世のあらゆる人に向けられるものでなければならない。

キリスト教的文脈における「愛」、すなわちギリシア語でいうところの「アガペー」は、要するに無条件の愛なので、少なくとも建前上はあらゆる人に向けられるものでなければならないはずである。

しかし、結婚式において、自分の妻や夫になる特定の人物に対してのみ愛を誓うのであれば、それは結果的には、その相手以外の人々のことは、少なくともその結婚相手ほどには愛さない、ということを意味せざるをえない。ある人に対する「愛の誓い」は、同時に、別の人に対する「あまり愛さないという誓い」にならざるをえないのではなかろうか。

ツナサンドでも食べたいなと思って歩いていたら、目が合ったのは黒い猫。

最近では「愛国心」(祖国愛)はあまり評判のよくない「愛」である。他国をも愛し、人類全体へ愛を向けるべきであって、自分の国だけよければいい、自分の国だけを愛する、というのは「愛」の名に値しないものである、というような考えによってこれは批判されているのだと思う。

だが、そのような理屈で「祖国愛」を否定するならば、「家族愛」も同じように否定されてしまうだろう。

自分の家族だけよければいい、自分の家族だけを愛する、というのではなく、隣の家族も、そのまた隣の家族も、あらゆる人々の家族を愛するべきであって、「愛」を自分の家族にだけ限定するなら、そんな「愛」は「愛」の名に値しない、という理屈もありうるだろう。

結婚を論理的に正当化するには、結婚は実は「愛」の問題ではなく、むしろ即物的に「性交相手を限定すること」、あるいは「経済的な連帯関係を約束すること」というふうにするしかないのだろうか。

だとすると、愛とはいったい何なのか。

「愛」を結婚の中心に据え、その核にしようとする限り、結婚はすなわち「家族以外の人間のことはさほど愛しません、大事にしません」という冷たい自己中心性の影を負わざるを得なくなる。だとすると、結婚における愛の宣言は、普遍的な愛の観点からすれば敗北宣言のようにも思えてしまう。

しかし、世の中のほとんどの人は、それでも「愛」を口にして結婚し、家庭を作る。これはいったい、どういうことなのだろうか。

私は決して、それが悪いと思ったわけではない。ただ、この限界というか、冷たさのようなものに気付かないでいることと、気付いたうえで「人間はそのようにしか生きられない」と認めつつ特定の相手だけを特に大事にして生活していくよう割り切ることとの間には、わりと深い溝があるようにも思ったりもするのである。

もう少し考えれば、もっと別の見方を思いついたかもしれない。だが、このあたりまで考えたところで、私の乗った電車はちょうど自宅の最寄り駅についたので、私は座席から立ち上がって、電車を降り、また別のことを考え始めた。

(終)

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