万年筆やボールペンを使って感じる幸せ

ここしばらく、同じボールペンを愛用している。

万年筆を使うことも多く、いまでも万年筆は常にペンケースに入っている。だがここしばらくは、なぜかボールペンの出番の方が多い。

このボールペンは日本のメーカーの新しいタイプの芯が使えるもので、従来のボールペンとくらべて圧倒的に書きやすい。全体は金属製でしっかりと出来ており、クリップの部分をスライドノックさせるとペン先が出たり引っ込んだりする。

これはけっこう前に買ったのだが、重さのバランスがちょうどよいので、全く同じものを黒・青・赤と三色そろえてしまった。「書きやすいなぁ」と感じる筆記具を毎日使えるのは、実に幸せである。

私は、本の原稿や講義ノートなどはパソコンで書いているが、原稿の構想やメモには、まだまだ紙のノートをたくさん使う。毎日書いている日記も、紙のものに手書きである。

高校生の頃から、ノートにあれこれ文章を書くのが好きだったし、大学に入ってからもそれは続いた。社会人になってからも、けっこう長いこと日記を書き続けているが、それらのほとんどを、万年筆やボールペンで書いてきた。

私はなぜか、小学生の頃から、筆記具が好きだった。大人になってからも、つい万年筆とかボールペンなどを買ってしまう癖は抜けず、もうけっこうな量になっている。

帰り道、学生たちの背中を眺めた後、遠くのマンションを眺めた。

小学校4年生の頃、お小遣いをためて、使いやすくて質感のよいシャープペンシルを買った。ボディは銀色で、グリップのところだけブルーのプラスティックで滑り止めがついていた。700~800円くらいしたのではなかっただろうか。当時の私にとっては、高価なものだった。同じモデルで、グリップのところが木製の商品もあって、そちらにはずっと高い値段がついていたということまで覚えている。

高校1年生の時、万年筆が欲しくなり、初めて1200円くらいの万年筆を買った。ところがそれは、今思えば不良品だったのか、インクの出があまりに悪く、全くと言っていいほど使い物にならなくて、非常にがっかりしたことを、これもまたとてもよく覚えている。

それ以降は、祖父母が使っていた万年筆を借りて、いつのまにか自分のものにして使っていた。そして大学生になった年に、初めてデパートでそこそこの値段のする万年筆を買った。それは外国製のもので、ペン先が独特なひし形をしたインレイニブのペンだった。これは非常に書きやすくて、今でも手元にある。

それからかなりの年月がたち、いい年になった現在まで、何本も何本も、万年筆やボールペンを買ってきた。

私は、衣服にはまったく興味がない。いわゆるブランド品も持っていない。車も、バイクも、持っていない。自転車も持っていない。9年前に買ったコートを、いまだに着ている。同じく9年前に買った長袖Tシャツには小さな穴が開いているけれど、今でもパジャマとして着ている。

ただ、筆記用具、特に万年筆やボールペンにはなぜか固執しており、いろいろなものを何本も買い続けて現在にいたっている。必要なものは買わず、欲しい物を買う人生である。

万年筆は、安ければ1000円くらいで十分に使いやすいものがある。だが、高価なものになると何十万円、何百万円というものも珍しくない。だが、それは素材やブランドの値段でしかない。私にとってペンはあくまでも実用品なので、そんなに高価なものは買ったことはないし、今後も買わないだろう。

勤務先の大学では、一日中、自分の研究室で一人で仕事をしているので、高級なペンを誰かに見せて自慢するような機会もないのだ。ペンは、安いものの方が、かえって軽くて使いやすかったりする。

日本語は漢字が多いので、外国製の太いペン先の万年筆では使いにくいことがある。たくさん買っていろいろ試してきた結果、万年筆に関してはやはり日本製の極細ペン先のものが使用頻度が高い。

私が日頃持ち歩いている万年筆は、ノーマルな細字ではなく、先端がやや下に向かって湾曲している特殊なペン先のものだ。万年筆オタクなら知っているだろう。これだと日記帳やノートにも、小さな文字をぎっしりと書き込むことができる。

夕方になり、誰もいなくなり、柱はレモン色。

筆記具というのは、デザインは重要だけれど、重くてはいけない。せいぜい32グラムくらいまで、できれば25グラム以下のものが快適で、重心のバランスもペン先側にあったほうが圧倒的に書きやすい。

外国製のものには華やかな色や凝った形状のものがあるが、あまり目立つ意匠だと気が散ってしまい、肝心な文章を書く作業に集中できなくなる。したがって、普段よく使うのは、結局地味なデザインのものに落ち着いたりする。

ボールペンが一般にも普及したのは、第二次大戦が終わってから、1945年以降のことである。だが、すでに第二次大戦中に、イギリス空軍は航空機搭乗員たちに対していち早くボールペンを支給したのだった。

というのは、万年筆だと気圧の変化でインクが漏れたりするし、鉛筆ではしょっちゅう削る必要があり、落としたら簡単に折れてしまったりするからだ。ボールペンという新型筆記具も、軍事活動を支えたわけである。

ところで、私のなかでは、数ヶ月から半年くらいの間隔で、万年筆を多く使う時期と、ボールペンを多く使う時期とが入れ替わる。なぜかは自分でもよくわからないが、自らを観察していると、そんな感じである。

しばらくは、あらゆるときにサラサラと万年筆ばかりで書くが、ふとしたタイミングで、グリグリとボールペンばかりを使うようになったりする。それからしばらくすると、再び万年筆に戻り……、といった具合である。今はたまたま、ボールペンの時期なのだ。

どういうきっかけやタイミングで一方から他方へ移行しているのかは、自分でもよくわからないが、その都度、「この万年筆は書きやすいなぁ」とか「このボールペンは使いやすいなぁ」と満足している。

万年筆は、インクが水性である。いったん濡れて、それから乾くことで文字が定着するというプロセスに、素朴な面白さというか、漠然とした安心感というか、そんなようなものを感じることもある。

ボールペンは、ペン先を傷めないようにと気を遣う必要はなく、気軽に走り書きをさせることができるので、それはそれで安心して使える。

どちらの筆記具の方がより良いアイディアが思い浮かぶかというと、両方とも良い、としか言いようがない。それぞれに利点があるし、それぞれに使いやすさと安心感がある。

だが、ペン先は細い方が良い、というのは共通している。私はノートに手書きで文字を書きながらものを考えることが多いのだが、太いペン先だと、思考そのものも大雑把なものになってしまうようで、うまく考えがまとまらなくなる。

細かい字が書けるペンを手にしている方が、考える速度が適切になり、文字を書いているときの感触も心地よく、うまく物事を考えることが出来る気がするのである。

だから、万年筆なら極細字のニブで、ボールペンなら一般的な0.7ミリではなくて、0.5ミリの芯にしている。その方が、原稿のメモづくりははかどるし、日記なども快適に書けるからだ。

こんなことを書いていると、万年筆やボールペンに「こだわり」があるのだと思われてしまうかもしれない。だが、筆記具そのものにこだわっているつもりはない。私はただ、小さい字でごちゃごちゃと書くのが好きなので、それを可能にする道具が欲しいだけ、というつもりなのである。

世の中にはいろいろな幸せがあるが、細かい字が書けるペンを毎日使うことができるのは、大きな幸せの一つである。

(終)

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