誰もいないところでどんな風に生きるか、という話

さっき、風呂場で湯船につかりながら、ある作家のエッセーを読んでいた。

ずいぶん昔に東京の古本屋で買ったもので、背表紙には「¥105」というシールが貼られたままである。それは日記形式のエッセーで、今の職場に移ってくる前から、何度も繰り返し読んでいた。

今日、風呂場に行く前に、ふと気まぐれでそれを本棚から取ってきて、お湯につかりながら読んでいたら、次の一文がふと目に止まった。

「誰もいないところでどんな風に生きるかがその一生を左右する」

これは以前読んだときも印象に残った一文なのだが、今日再び読んだときもやはり目に止まった。

この言葉は、ここだけを抜き出すと、単なる「勤勉のすすめ」のように受け取られてしまうかもしれない。すなわち、周りと差をつけてライバルを出し抜くには、誰にも見られていないところでコツコツと努力することだ、というような意味にとられるかもしれないが、これは決してそういう話ではない。

ここでは、社会的な成功をおさめるための振る舞いについて論じられているのではない。ここでは、人生のあり方というか、自分の命の用い方の全体が問題にされているのである。

花でも虫でも、名前を知っているだけで、それをよく知っているとみなされる傾向がある。

この箇所の前後の文脈はとても短いので、厳密に何を言わんとしているのかについては、究極的には読み手の解釈にゆだねられている。だが、この直前で著者は「祈り」という行為について言及しているので、この一文はその文脈を念頭において読む必要がある。

ここでいう「祈り」というのは、単に商売繁盛とか、縁結びとか、健康とか、そういう物質的な快楽や幸福を求めることではない。そのようなものは「祈り」というよりも、単なる「願い事」に過ぎない。

お金や健康や出会いを求めることが悪いというわけではないが、この作家がここで念頭に置かれている「祈り」はもう少し広い意味を持っている。

「祈り」は、単に利益や幸福を要求することではなく、神に対する「感謝」であったり、「問いかけ」であったり、「賛美」であったり、「嘆き」であったり、「反省」であったり、いろいろな面をもっている。

そのような意味での「祈り」においては、知恵と誠実さが求められる。

自分は何者であるか、いまどのような状況にあるのか、何が可能で何が不可能なのか、何が正しいのか、何か大切なのか、何を求めるべきなのか、といったことを考え抜いていないと、そもそも「祈る」ことはできないからである。

誰も見られていないところ、すなわち「心」の中で、何を願い、何を問い、何を反省し、何に感謝しているのか、つまり「何を祈っているか」という点こそ、確かに、その人の、人としての真実なのかもしれない。

いい天気で、いい具合の逆光だけれど、誰もいなくなった。

私たちは、いつかは必ず死ぬのだから、「生きている」というのは「死にかけている」に等しい。そして、そもそも自分の意志でこの世に生まれてきたわけではないし、この身体も自分の努力で獲得したわけではない。さらに、生きているあいだに手に入れたものは、決して死後も持ち続けることはできない。

要するに、この世の生は、かりそめに過ぎない。

だから、自分と同じはかないものの目、つまり他人の目を気にして生きるのではなく、本当に大切なものは何かを問い、考え、悩み、感謝すべきことに感謝し、本当に反省すべきことを反省せねばならない。

感謝すべきことは何か、反省すべきことはなにか、願い求めるべきことは何か。こうしたことに関する思索と、それに基づいてなされる表現、つまり「祈り」は、自分の心の中だけでなされる。

人は、考えたことや感じたことはわりと簡単に口に出すが、「祈ったこと」はめったに口には出さない。祈りとは、究極の個人的行為である。「誰もいないところでどんな風に生きるか」というのは、つまり「一人でいるときに何を祈っているか」なのだ。

誰のどの本だったか忘れたが、「何を見て笑うか」でもって、その人の人となりというものがわかる、という主旨の文章を読んだ記憶がある。それも、そうかもしれない。だが、もっとその人の人となりがわかるのは、「何を祈るか」なのではないだろうか。

誰にも見られていないところでなされる「祈り」という名の思索や表現は、自分自身にも跳ね返ってきて、その人自身を包み込む。だから、結果として、人は自らの祈りによって自らを形成していく、という傾向も確かにある気がするのである。

この作家が本当に言いたかったことはどういうことなのかはわからないが、今日は、私は、このように考えた次第である。

(終)

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