風が強かったので、風についてあれこれと考えた

今朝、朝起きて窓から外を見たら、曇り空だった。

曇り空のなかでも一番水分の多いタイプの曇り空で、ちょうど15秒前に雨がやんだばかり、というような雰囲気だった。

地面は明らかに雨で濡れており、曇りといってもけっこう暗い。だが、歩いている人たちはもう傘をさしていなかった。天気予報も「雨のち晴れ」となっている。もう雨は降らないようなので、私は傘を持たずにうちを出て、大学に行って仕事を始めた。

空は、天気予報のとおり少しずつ雲がなくなっていき、昼前には青空が出てすっかりいい天気になった。

ところが、夜になって帰宅する時間になると、今度は猛烈に強い風が吹き始めたのであった。一年に一度か二度くらいしかないような強風である。

そんなわけで、夜は大学から駅まで、ものすごい強風のなかを歩くことになった。歩いている時は、頭のなかは暇なので、何かを考えるしかない。では、今日はその強風のなかで何を考えながら歩いたかというと、風が強かったので、やはり「風」について考えた。

これはどうやってこの部屋へ入ったのか、これからどうするのか、などと考える癖。

強い風というのは、その現象それ自体はたいしたものではないような気がするのだが、周囲の木々を揺らしたり、建物の間を吹き抜けたりすることで、他にはない独特な音を出す。ビュービューとか、ゴォーゴォーとか、いろいろなオノマトペがありそうだ。どうして風というのは、人を緊張させるような音を出すのだろう。

全身を強い風に吹かれて歩いていると、なんだかそれだけで、誰かから怒られているような気にもなる、と思った。「風圧」という言葉は、人や組織から何らかの圧力をかけられることについての比喩としても使われる。だから、実際に物理的な「風圧」を受けると、人や組織から受ける圧力を想起してしまうのだろうか。

それとも、風が強いと普通に顔を前に上げることができなくてうつむきかげんの姿勢をとるため、それが心理に影響を及ぼして、あたかも自分が何か悪いことでもして責められているかのような気分を生み出してしまうのだろうか。

よくわからない。

風にビュービューと吹かれていると、イソップ寓話の『北風と太陽』のことも思い出す。イソップ寓話に登場するのは動物が圧倒的に多いが、この話は珍しく「北風」と「太陽」という動物ではないものが主人公になっている。風といえば、他にも文学作品では、宮沢賢治の『風の又三郎』という作品があった。確か小学生のときに読まされた記憶があるが、どんな話だったかは忘れてしまった。

マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』は映画にもなっていて、今では映画の方が有名だろうか。また、アニメの『風の谷のナウシカ』を知らない日本人はいないだろう。歌では、私はアルフィーの「風曜日、君をつれて」が好きなのだが、世界的にはボブ・ディランの「風に吹かれて」の方が知名度は高いかもしれない。

『平家物語』の冒頭は、私は中学三年の時に国語の授業で暗記させられて、今でもそらんじて言うことができる。「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」。ここでも最後に「風」が出てくる。

このようにさまざまなところに「風」が出てくるのは、それについてさまざまな連想が働くからであろう。

風は空気の流れに過ぎないが、私たちはそれを単に気流として冷静に観測するだけではなく、人生における何かを象徴するものとしても捉えてきた。

風は、何かを吹き飛ばす暴力的なものというイメージもあるし、「風と共に去る」とか、「答えは風の中にある」と言うように、何かを遠くに追いやったり、消したり、隠したりするもの、というイメージもある。

風というのは空気の移動だが、音というのもつまりは空気の振動、空気の動きである。だとすると、音楽と風は、究極的には似たようなものだと言えるだろうか。コンサートに行けば実感するように、音楽もそれ自体は目には見えないが、耳で捉えられるだけでなく、肌で感じることもできるからである。

こう考えると、音楽のみならず、私たちが口から出す言葉も同じかもしれない。私たちの会話も、究極的には風と似ている、などと言えるとするならば、ちょぴり詩的である。

街灯がつく瞬間と消える瞬間に気が付いたことは、まだない。

ただし、音楽や会話は、その開始と終わりを人間がコントロールできるが、風はそうはいかない。風が吹き始めるのも吹き止むのも、人間は決して止めることができない。それに対しては、ただ耐え、あるいは黙って見ているしかない。

確かに人は、これまで風をたくみに利用してきた。帆船やヨットなどで空間を移動するためにそれを利用してきたし、風車という形で何かを加工したりするための動力源としても利用してきた。現代の風力発電もそうである。だが、それらはあくまでも風を借りているのであって、風の発生そのものをコントロールしているわけではない。

風は依然として、人間にとってどうしようもないものなのだ。

それは、人間の力を超えたものである。だからこそ、日本の「風神」や「かまいたち」のように、風は宗教的・神話的な文脈でもしばしば登場する。「ヨハネによる福音書」で、イエスは「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」と言っている。

人間は月の上を散歩したり、遺伝子を操作したり、音より早く移動することもできるが、それでもなお、地上で風を意のままに操ることはできないでいる。

さまざまな文化で、風は「霊」やその他何かしら不思議な力と関連付けられてきたことは、極めて当然だったのかもしれない。

コントロールが不可能なうえ、圧倒的な力をもっている風は、目が見えない人も、耳が聞こえない人も、確かに感じることができる。風は「どうしようもないもの」であることを全身で認めざるをえない。だから、それはこれまで神秘的な現象とされてきたし、今でも神秘的なものであり続けている。

空気は常に動いており、だから私たちは息をすることができる。だが、空気があまりに強い勢いで動くと、服がまくれたり、髪が乱れたりする。寒かったり、目にゴミが入ったり、息がしにくかったりする。体ごと吹き飛ばされることもある。

それはどうしようもない。たまには軽く風に吹かれて、自らの「分」というものを思い知ることも、大切なのかもしれない。

今日はそんなふうに考えながら、大学から駅までの約15分間を歩いた。

(終)

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